もとじろう旅ブログ

海外バックパック旅や宮城周辺スポットについて書いてます

【九戸政實】首級清めの池と九ノ戸神社

もとじろうです。

 

岩ケ崎の付近には、伊達家の他にも興味深い歴史が残ります。

天下人豊臣秀吉に、最後に立ち向かい「九戸政実の乱」を起こした九戸政實にまつわる史跡がありました。

 

 

九戸政實首級清めの池

岩ケ崎中心街から国道457号を下った稲屋敷という土地に、九戸政實首級清めの池があります。

処刑した頭部を洗ったという池ですね。。。

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車が行きかう国道脇に、そんなおっかないものがあります。

標識にもあるように、九戸政實(くのへまさざね)岩手県福岡の城主でした。

では、なぜそんなことになってしまったのか、説明を見ていきます。

 

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九戸城(現二戸市福岡城)城主左近将監政實は、南部藩随一の豪者と呼ばれた勇将であった。

南部家(盛岡)は、第二十六代の後継者選定について二派に分かれて紛争あり、後継者は田子九郎信直に決定したが、九戸政實との反目が深刻化した。

ことの発端は、南部氏の後継者争いでした。

二派に分かれたとありますが、候補のうち一人は田子九郎信直(のちの南部信直、もう一人が九戸政實の弟だったんですね。

しかし、結局は重臣者会議で信直に決まります。

不服とした政實が対立しますが、信直は豊臣秀吉の後ろ盾を得ることに成功。

反逆した政實は、秀吉配下の大軍と戦う展開に…。

 

総大将は三好中納言秀次、討手の大将蒲生氏郷堀尾吉晴浅野長政井伊直政等指揮する六万五千の兵力、迎え撃つは手兵僅かに五千

無謀です。無謀すぎます。相手側のメンツが強すぎる。

 

ちなみに、『九戸城戦闘要図』が九ノ戸神社に奉納されています。

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四面楚歌とはまさにこのこと。松前津軽藩もいたんですね。

政實は籠城作戦に出ますが、最後は蒲生氏郷の謀略によって敗北を喫します。

この謀略、どのようなものだったかと言うと、

九戸氏の菩提寺の和尚を使者に、政實の武勲を称え、婦子女や下級武士の助命を条件に和議を勧告、政實はこれを呑み開門しますが、悉く撫で斬りにされあえなく落城

二戸市HPより・一部略)

めちゃくちゃにせこい…。菩提寺の和尚を使うあたりが悪質すぎます。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代ですからね。勝てれば何でもありなのでしょう。

しかし、こういった手を使わざるをえない程、九戸政實に苦戦したということでもあります。

 

さて、長くなりましたがここまでは岩手での話です。

岩ケ崎に来るのはここから。

政實一行は囚人用の竹籠に乗せられ、天正19年9月8日出発し、9月17日三迫の上品寺(栗駒町上野、現在は廃寺)に宿泊、秀次に報告の後、9月20日にこの地で斬首され、この泉で首級を洗い、遺骸を埋めた所に塚を立てた。

なぜこの土地だったのかはわかりませんが、京都へ戻る道中、処刑が決したということでしょうか。

ともかく政實の首は冒頭の池で洗われ、遺骸を埋めた塚はのちに九ノ戸神社になったということ。

 

九ノ戸神社

神社は池のすぐ近くにあります。

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明治初年頃、遠田郡のとある行者が、夢の中で九戸政實に「塚を探し出して供養してほしい」と託され、荒れ果てた草むらから塚を見つけ出し、この神社を建てたそう。

九戸政實の姿が描かれた絵馬などが奉納されていました。

 

ちなみに「遺骸を埋めた」とありましたが、政實の首は京都の秀吉のもとへ運ばれたとされている一方で、家臣が岩手県九戸村へこっそり持ち去ったという話もあるそう。

実際、現在も九戸村には首塚と政實神社があるようです。

こちら、稲屋敷の九ノ戸神社に埋まるのは、首以外というとこですね。

 

九ノ戸神社から数十m下ったところ、大鳥中集会所の敷地にも神社があります。

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こちらは大きな鳥居が目立っていました。

 

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『機関紙 九戸城 第4号』(昭和62年 二戸商工会青年部発行)によると、先の九ノ戸神社は、

通行量も多くおちおち参詣できない状態にありました。栗駒町側では「すぐ近くに九ノ戸神社を移したいと言うことでスペースは確保しているが財政等の都合もあり容易ではない、そこで二戸市民の協力が得られれば…」

とありますので、その後二戸市の協力のもと、ここへ移されたのでしょう。

 

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九戸城主左近将監政實 主従慰霊之碑

処刑された政實らを哀れんだ村人が墓標として椿を植えたそうで、その椿をここへ移植したとのこと。

敷地内には石碑も多く並んでいました。家臣らのものでしょうか。

 

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こちらがその椿。

 

岩手の九戸村にも九戸政實の神社があると書きましたが、地元の方々にとても敬われていることがわかります。

九戸政実の乱」の制圧によって秀吉の全国統一が完了したとされており、政實は秀吉に最後に立ち向かった者と位置付けられています。

謀略にはまった最期というのも、東北の人の政實に対する思いを高めているのでしょう。

上記では一連の流れをかなり省略して書いていますが、詳細を見ていくと南部信直の立ち回りのうまさや、政實の人物像が見えてきて面白いです。

 

おまけ(上品寺はいずこ)

さて、ここからは蛇足ですが、個人的には処刑の前に一行が宿泊したという上品寺(じょうぼんじ?)が、どこにあったのか気になります。

いろいろ調べましたが、情報が分かれており

➀岩ケ崎高校の敷地もしくは付近とするもの

➁現栗原寺がかつて上品寺だったとするもの

と、主に2通りあります。

 

エフエム岩手のブログ『政実くのへFM』では、現地の方に「愛宕山・旧上品寺跡地」と案内されているようです。

愛宕山は、愛宕地蔵尊法蔵寺がある小高い丘のことだと思いますが、これは先の慰霊碑にある

政実主従八名を捕え三迫上品寺まで連行寺の東南の丘に於て処刑

の記述とも合致します。

僕自身付近を探索した際、この愛宕山の山頂部に墓がいくつかあるのが見え、ここを疑っていました。(私有地であることが明らかだったため、路上から確認するのみ)

 

しかし、県教育委員会の調査報告書『栗原寺跡』では、現在の栗原寺(りつげんじ)がかつての上品寺だったと記されています。(昭和59年、寺号を変更)

ただ、この栗原寺は、九ノ戸神社から東南へ数キロと少し離れた位置にあります。他の記述とは合致しません。

 

かなり頭を悩ませたのですが、九戸政實の時代は愛宕山にあり、その後昭和頃までに、現栗原寺へ移っていたという理解をしています。

もし情報に誤りがあればご指摘をお願いしたいと思います。

 

ちなみに、県発行の遺跡地図では、愛宕山は『中の森遺跡』としていますね。何の遺跡かはわかりませんが。

 

 

さて、かなり長くなりましたが、今回はこのへんで…。

岩ケ崎および栗駒編はここで一区切りです。

伊達家分家に関連する史跡はこちら、

【岩ケ崎伊達家】黄金寺と2代伊達宗信の墓

もとじろうです。

 

岩ケ崎史跡めぐりの続編です。

今回は岩ケ崎伊達家2代、伊達宗信の墓がある寺へ訪れます。

前回はこちら、

 

 

熊野山 黄金寺

伊達政宗の五男、伊達宗綱岩ケ崎伊達家初代領主として置かれたことは前回書きました。

しかし、この宗綱、16才という若さで亡くなってしまったそうです。

そのため伊達政宗の六男、伊達宗信2代目領主として置かれることになりますが、

この宗信までもが若くして亡くなってしまい、跡取りの無いまま岩ケ崎伊達家は断絶してしまいました。

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その2代目伊達宗信の墓が、町の北西に位置する黄金寺(おうごんじ)にあります。

入口の標識には『伊達宗信 古内重定夫妻之墓』と書いていました。

古内氏は、「伊達騒動」の古内志摩義如などで知られる伊達家重臣の家柄ですね。

この古内重定は、2代伊達宗信に仕えていたのでしょう。

 

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こちらが本堂。

金ピカの黄金に輝く姿を期待したでしょうか。僕は少し期待しましたが、そんなわけありませんでした笑。むしろ質素な趣ですね。

敷地が結構広いのですが、左手の方に墓がありました。

 

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この階段を上ると、

 

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墓が並んでいます。

 

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中でもひと際目立っていたのがこちら。

珍しい形をしていますが、五輪塔の一種でしょうか。近くで見ると結構大きいです。

特に説明は無かったのですが、位置や形状から見てこちらが伊達宗信の墓でしょうか。

周りで見守るようにして建つのは従者たちの墓だと思われます。

 

これまでいろいろ墓を見てきましたが、この形状は初めてでした。

 

さて、階段を降りて中段を奥へ進むと2基の墓が建っています。

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対に建てられている様子から、こちらが古内重定夫妻の墓でしょうか。

 

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四角い方が重定かな?

 

本堂の脇、観音像の台座に説明書きがありました。

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かつて七堂伽藍を誇った黄金寺は三度の火災に遭い、宝物記録などが焼失してしまったそう。現在の本堂は明治2年の造営。

伊達宗信生母の墓、古内重定夫妻の墓の他に、茂庭氏一族上遠野家などの墓が在るとあります。

生母の墓もあるんですね。ただ、どれが誰の墓なのかは、はっきりとはわかりませんでした。

 

他の分家にあったように墓がずらっと並んでいるものとは異なりましたが、由緒正しき寺であることには間違いないですね。

 

清水寺熊野神社

黄金寺前の通りをさらに進んで行くと、清水寺(せいすいじ)熊野神社が隣り合っています。

清水寺はその庭園が名勝に指定されているそう。

人気が無い山中ですので、獣対策をして来た方が良さそうです。

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先に写真右手の清水寺から見ていきます。

 

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ご住職は現在、仙台の寺にいるようでこちらは留守にしているとのこと。

でも草を刈ったばかりだったので、時々管理に来ているのですね。

 

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こちらがその庭園。蓮池があります。

 

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不動明王像でしょうか。

 

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奥に立ち並ぶ墓。何かの供養碑でしょうか。

 

さて、次は隣の熊野神社へ行ってみます。

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鳥居をくぐって進みます。

 

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なにやら囲いがされていますが、亀の形に掘られた大きな石でした。『亀名石』というそう。

 

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階段をひたすら登ります。

 

ここで拝殿を正面から撮影したのですが、うまく撮れていませんでした…。

代わりに拝殿脇と裏にある本殿の写真。

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宮城県神社庁HPに神社の紹介がありました。

当社は延暦10年(791)征夷大将、坂上田村麻呂の東伐下向の際勧請により建立されたとの伝えあり。明治以前は熊野山黄金寺境内に在りしが明治4年今の地に奉遷する。同5年11月村社に列せられる。

宮城県神社庁HPより)

坂上田村麻呂にまつわる神社は東北各地に多いですが、ここもその一つのようですね。

田村麻呂は征夷大将軍という役職ではありましたが、東北の地においても長く敬われてきたことを感じます。

神社は先ほど訪れた黄金寺境内にもともとあったそう。そんな繋がりがあったんですね。

 

さて、岩ケ崎には他に鶴丸城跡があるのですが、今回は訪れなかったので、代わりに九戸政實という人物の史跡を見ていきます。

【岩ケ崎伊達家】2代で途絶えた分家の町を歩く

こんにちは、もとじろうです。

 

今回は、伊達家分家シリーズ第4弾、岩ケ崎伊達家についてです。

なんだか岩出山と混同してしまいそうですが、こちらは宮城の県北、栗原市栗駒に置かれた分家で、伊達政宗の五男伊達宗継が初代領主となっています。

分家としてはあまり聞き馴染みがないかもしれませんが、それもそのはず。領主が早世し、わずか2代で断絶してしまっているんですね。

鶴丸城を本拠としていましたが、断絶後は代々家臣が城主を務めたようです。

 

岩ケ崎町歩き

宮城の北端、岩手県にも近い場所に岩ケ崎はあります。

仙台からは車でも1時間半ほど。車は栗駒駅跡地などに止められます。

ひとまず商店街を町ぶら。

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六日町と呼ぶそうです。時計店の外観が良い感じ。

 

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ちょっと逆光になってしまったけど、昔ながらの八百屋さん。

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とても商店街らしい町並み。靴屋の軒先テントが良いですね。

 

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脇の小路もいい感じ。

 

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昔ながらの店舗が多いですが、今風な新しいお店も所々に入っていました。

 

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『源氏蛍せんべい』というのが名物のよう。

 

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なんだか懐かしい感じのガチャガチャ。昔は200円でも高かったけどなぁ。

 

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ショッピングセンターのマルコー。もう営業はしていません。

 

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営業時の様子を見てみたかった…。この看板がいい感じですね。

 

岩ケ崎は地図で見ると一目瞭然ですが、城下町として綺麗に町が区画されているのがわかります。

 

マルコーの脇にはこんな松の木が立っています。

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松尾芭蕉が松に衣を掛け、しばし休憩をした場所だそう。ここから平泉の束稲山(たばしねやま)を眺めたとありますが、標高600m程度の低山のようで本当に見えたかはわかりません。

道順としては、一関(いちのせき)のある北東から岩ケ崎に入って、岩出山へ南下したという感じでしょうか。

岩ケ崎と岩出山は現在、県道17号で繋がっています。

 

ちなみに北の一関は岩手県ですが、ここも分家が置かれた土地です。

 

摂取山 円鏡寺

少し移動して円鏡寺にやって来ました。

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奥へ進みます。

 

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赤い瓦が特徴的なこちらの山門、かつては岩ケ崎伊達家の居城である鶴丸城の大手門だったそう。

そのことを示すように、屋根の棟には伊達家の家紋が入っています。小さなシャチホコも乗っていますね。

でも鶴丸城跡地から離れているのに、なぜここに? と思ったら、やはり移築されたものだそう。

手前にはしだれ桜が立っています。

 

こちらは円鏡寺前の通り。茂庭町の名前が残ります。

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宮城で茂庭と言えば、伊達三傑のひとり、茂庭綱元(もにわつなもと)を思い浮かべると思います。

片倉小十郎伊達成実に並ぶ伊達政宗重臣で、『独眼竜政宗』でもその活躍がよく描かれていました。

実はその茂庭綱元鶴丸城に岩ケ崎伊達家が置かれる際、初代伊達宗綱がまだ幼少であったために守役として来ていました。

そのため茂庭家の屋敷などが、このあたりに並んでいたそう。

 

今回は訪れていませんが、北西に位置する洞泉院に綱元の墓があるようですね。

 

こちらは茂庭町にある洞松院。立派な山門が建っていました。

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詳しくはわからなかったのですが、茂庭家と関係があるのでしょうか。

 

さて、次は2代伊達宗信の墓があるという寺を訪れます。

 

 

くりはら田園鉄道栗駒駅跡に車を止められます。

【岩出山伊達家】伊達家霊廟と山岡志摩重長の墓

もとじろうです。

 

岩出山伊達家にまつわる史跡をめぐるシリーズ、第3回です。

今回は岩出山伊達家の霊廟を訪れます。

前回はこちら、

 

 

岩出山伊達家霊廟

岩出山城から南へ数百m、蛭沢川を渡ったところに岩出山伊達家の霊廟があります。

霊廟は松窓寺(しょうそうじ)が管理しており、境内の真向かいに位置しています。

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蛭沢川に架かる赤い橋を渡ったところに松窓寺はあります。

駐車スペースは寺の入り口に1、2台ほど。

 

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道路左手に入口が見えると思います。民家の入り口のようにも見えますが、大丈夫です。ここを入っていきます。

 

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初代宗泰公は、伊達政宗の四男として京都の藩邸で生まれています。

 寛永15年(1638)伊達郡梁川5万石の大名取立の内命を受け江戸に登る途中、疱瘡にかかり急逝した。遺骸は、現在地に埋葬、霊廟を建立して遺像を安置し暑く奉祀した。

もとは初代宗泰と2代宗敏の霊廟が建っていたそうですが、残念ながら明治に焼失したようです。

桃山式だそうで、どんな建物だったのか気になりますね。極彩色に彩られていたのではないでしょうか。

 

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とても雰囲気ある道が続いています。杉並木と小さい花が綺麗ですね。

 

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ぶれてしまいましたが、奥に墓が並んでいます。

 

まずはこちらが、岩出山伊達家初代伊達宗泰の墓です。他より高い位置にあります。

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灯篭が2基建てられていますね。

脇には墓碑がいくつか並んでいます。先の説明文にありましたが、これは殉死者のものだそう。左右に5基ずつで、計10人の家臣が殉死したということですね。

写真は左の5基のみ写っています。

政宗公を追った殉死者は20人とされていますが、宗泰公の10人というのも多いですね。

それだけに慕われていたのでしょうか。

 

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こちらは4代村泰(右)と夫人(左)の墓。

このように代々の領主と夫人の墓が並んで建っています。

 

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2代宗敏の墓だけポツンとしてますが、夫人の墓はどこへ行ったのでしょう…。

別のお寺にあるとは思うのですが。

 

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反対から見た様子。

亘理や宮床の伊達家の墓と比べるとシンプルな造りではありますが、こうして並んでいるところを見ると、やはり厳かな心地になります。

 

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離れた位置に何やらもう一基建っているものがあります。

 

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他とはまた違って細長く尖っています。

十代邦直公記念碑」だそう。これは、10代邦直北海道開拓の偉業を讃えた顕彰碑とのこと。

 

伊達家で北海道開拓と言うと、亘理伊達家が北海道に渡って伊達市を築いています。

その時の亘理伊達家14代伊達邦成は、実はこの邦直の弟です。岩出山から亘理へ養子に入っていたんですね。

つまり、兄の岩出山伊達家10代邦直と、弟の亘理伊達家14代邦成は、兄弟で北海道開拓に渡っています

そして、邦直は家臣とその家族340人を率いて当別町を開拓したそう。

墓はそちらにあるのかと思いきや、なんと邦直公は当別神社の祭神として祀られているそうです。

亘理の邦成公は、札幌の開拓神社で他の開拓者たちと共に祀られているよう。

 

北海道開拓は、伊達家が戊辰戦争に敗れたことが関係していますが、逆境を乗り越えようとする邦直・邦成兄弟の志の強さを感じます。

 

ちなみに邦成さんより先に、伊達実氏岩出山から亘理へ養子に入っています。亘理伊達家5代領主となり、中興に力を尽くしたとされています。

 

山岡志摩重長の墓

さて、松窓寺には山岡志摩という人物の墓があるようです。

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ただ、写真を撮り損ねてしまいました。ここではありません。

 

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もとは伊具郡金津村にあった松窓寺を、山岡志摩がここへ移したそう。

伊具郡は宮城の県南地域ですが、金津村は現在残っていないようですね。角田市立金津中学校のあたりだと思います。

 

山岡家は代々、伊達家世臣の家柄で、志摩は初代宗泰が城主に任じられた際、まだ幼い宗泰を助けた重臣のよう。

又、文禄の役に従軍し抜群の戦功により豊臣秀吉から恩賞をうけ山岡志摩の名を許された。

大坂夏の陣には、家康より陣羽織を拝領するなど武功高い名臣であった。これが今も伊達家に伝わる白鷺の毛の交ぜ織りの陣羽織である。

朝鮮出兵大阪の陣で活躍し、秀吉と家康のそれぞれから恩賞を受けるとは、すごい人物だったんですね。

もとの名は山岡重長で、どうやらゲームの『信長の野望』にも登場しているようです。不勉強でした…。

 

はい、ひとまず伊達家分家シリーズ第3弾岩出山伊達家はここで区切りです。

分家をそれぞれ見ていくと、点と点が繋がって面白いですね。

岩出山はまた訪れることがあれば追加します。『感覚ミュージアム』とかも行ってみたいんですけどね。

 

岩出山伊達家と同じく、北海道を開拓した亘理伊達家についてはこちら。

岩出山出身の伊達実氏の霊屋もあります。

前回と前々回はこちら、

 

【岩出山伊達家】岩出山城址と、その城下町を歩く

もとじろうです。

 

伊達家分家シリーズ第3弾、岩出山伊達家の続編です。

今回は岩出山の町歩きと、岩出山城址を見ていきます。

 

前回は有備館について書いています。岩出山へ来たらまずここを訪れてみてください。

 

 

 

岩出山町歩き

今回は有備館から少し離れて、川沿いに歩いて行きます。

岩出山城のお堀であり、用水路でもある内川は、伊達政宗が整備したものです。

 

有備館裏手の内川を下ってくると、ニノ構橋に出ます。

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橋のたもとから見た景色。左に見えているのが内川の主流、中央は民家の用水路ですね。

 

しばらく真っすぐ川を下っていきます。上の写真とは対岸に来てます。

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周辺には料亭があったり、古い建築がところどころに見られます。

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十字路も越えて下っていきます。

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カーブのある風景がいいですね。

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榮や』という料亭前の用水路。

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やがて大きく右へ曲がっていきます。

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さらに進みます。

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岩出山駅前に出ました。この奥が駅。川はまだ続きますが、ここまでにします。

駅周辺は新しくなっていますが、町には城下町の風情が残っていると感じました。

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岩出山城址(政宗公立像)

岩出山城は、伊達政宗仙台城に入るまでの12年間を過ごした居城で、仙台城に移ると四男の宗泰岩出山に置き、ここに岩出山伊達家が始まります。

その後は岩出山伊達家が代々居城としていました。

現在の城址には伊達政宗があることでも知られています。

 

さて、ニノ構橋へ戻って岩出山城へ向かいます。

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岩出山城址の駐車場。ただ、ここから歩くと少しきついので、車は上に停めた方がいいです。

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この駐車場は、玉造郡役所岩出山町役場の跡地でもあるそう。今は何も残りません。

 

城址岩出山公園として整備されています。

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一番高台にある売店。イベント時などに開けるのでしょうか。

 

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この売店のある平場が、本丸跡のようです。(写真左奥が売店

 

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別の向きから。左に少し見えているのは野外ステージ。

 

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本丸があった位置が一番高く、その他の各広場は少し低い段になっています。

本丸跡の左手に何やら黒い影が描かれていますが、草木が鬱蒼としていて行くのをやめました。石垣が築かれているようです。

 

さて、岩出山城址のシンボルでもある伊達政宗へ向かいます。

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写真は内門跡。左右に石垣が築かれています。ここを進むと、

 

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ででどん。政宗公立像の登場。

白いです。青葉城仙台城)の黒い騎馬像とはだいぶ印象が違いますね。

ただ、実はこの政宗像、もとは青葉城にあったもです。

 

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昭和39年に岩出山に引っ越してきたそう。仙台のお年寄りで、青葉城に立っていたときのことを覚えている人もいるかもしれませんね。

ちなみに、”戦後空になった台座に”とありますが、実はこの白い像も仙台では2代目。

初代伊達政宗騎馬像は戦中、金属資源として供出されてしまっています。なんとか上部のみ残すことに成功し、現在は胸像として仙台市博物館の敷地に設置されています。

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仙台市博物館の胸像。胴体と馬がありません)

 

こういった経緯がある中で、平服を着た白い政宗公平和像が造られたことは、とても意味のあることだったろうと思います。作者の柳原義達氏の、平和への願いが込められているのでしょう。

 

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離れると少し寂しい感じがしますね、、、

 

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政宗像の視線の先には岩出山の町並みが広がっています。

 

本丸跡の方へ戻り、脇の階段を下って「こども広場」へ行きます。

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平場になっていますが、ここも何か建物があったのでしょうか。

 

一度戻って、別の階段を降ります。

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「さくら広場」ですね。いくつか段々になっているのがわかると思います。

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歩道や周りの石段は、公園を整備した際のものだと思いますが、全体的な構造は城跡であることを感じさせます。

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所どころに土塁が築かれているのがわかります。

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本丸跡にある岩出山城の説明文。

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上の方が見にくくなっていますが、

室町初期に大崎氏の家臣、氏家弾正(吉継)が築城し、1591年豊臣秀吉の命をうけた徳川家康が、伊達政宗のために榊原康政に縄張りさせ改築した。(一部改訂)

もとは大崎氏配下の氏家氏の居城でした。その後、家康公が改築する際、短い期間ですが、ここに滞在していたようです。

築城に用いた器具を埋めて、敷地内に八幡平を建立したとありますが、この神社は現在は鍋倉山八幡神社に合祀されたそう。

 

ちなみに政宗公が岩出山に入城するまでの経緯は、様々な騒動があって面白いのですが、また長くなるので省きます、、、

 

岩出山城址は現在、城山公園として整備されていますが、当時のままの立体的な構造を感じることができました。

 

さて、次は岩出山伊達家霊廟へ行きます。

 

【岩出山伊達家】江戸時代の学問所『旧有備館』

こんにちは、もとじろうです。

 

今回は伊達家分家シリーズ第3弾

仙台藩一門第八席岩出山伊達家の、岩出山(いわでやま)を見ていきます。

 

伊達家との繋がりが深い地で、伊達政宗仙台城に入る前、本拠を構えていたのが岩出山です。

政宗公が仙台に入るのは、天下分け目の戦い、関ケ原の戦いよりも後で、実はその前の12年間はこの岩出山にいました。

仙台のイメージが強い政宗公ですが、生まれは山形だったり、いろいろ転々としています。

 

 

岩出山駅(鉄道資料館)

陸羽東線岩出山駅から町歩きをスタートします。

仙台からだと東北本線で北上し、小牛田で乗り換えて岩出山へ来られます。

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赤い屋根の建物は古い駅舎で、今は物産と鉄道資料館になっています。新しい駅はその隣。

 

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鉄道資料館。『ポッポランド』の色合いとフォントが最高ですね。

古い駅名看板もとても良いです。

 

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この資料館は無料で見ることができます。

 

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鉄道が好きな方は、一度訪れてみてはいかがでしょうか。

ちなみに岩出山かりんとうが名物なのですが、個人的には黒糖のやつが好きです。ここで買うことができます。

 

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地元の高校生たちが駅を利用していました。

 

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 岩出山は、戦国期まで「磐手沢(いわてさわ)」と呼ばれていました。室町時代には、現在の大崎市一帯を支配した大崎氏の家臣、氏家氏が岩手沢城(現在の岩出山城址)に代々居城を構えていました。(一部改訂)

文中の地名は少し古いものですね。現在は古川、岩出山を含んだ一帯は大崎市となっており、かつては大崎氏が支配した土地でした。

その大崎氏が滅亡すると、伊達政宗豊臣秀吉によって生まれ育った米沢(山形)から岩出山に移されます

 政宗は、徳川家康の勧めにより家康が修築した岩手沢城を居城とし、その後、地名を「岩出山」と改めたといわれています。

岩出山の地名は、政宗が名付けたものでした。

その後、政宗仙台城へ移る段になると、四男の宗泰を置いて、ここに岩出山伊達家が始まります。

 

さて、これから岩出山の歴史を学びに行きます。

 

有備館

岩出山へ来たらまず訪れたいのが、この有備館です。

 

有備館は、岩出山伊達家2代宗敏の隠居所として建てられ、その後、江戸時代に学問所として開設した建物です。

目の前に有備館駅がありますが、岩出山駅からも歩いて行けます。広い駐車場もあります。

ちなみに、有備館駅には仙台市民にとって懐かしい『伊達政宗公騎馬像』があります。

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仙台駅で待ち合わせするとき「政宗像前で~」と言っていた、あの像です。実はここへ引っ越していました。

今は「ステンドグラス前で~」ですね。

 

はい、有備館へ行きます。

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大人は350円で見学できます。

有備館は、御改所(主屋)附属屋という2棟の建物が連なる造りとなっています。

上の写真は附属屋の出入り口で、藩主が籠の乗り降りをしたそう。

 

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奥の御改所からは庭園の景色を眺めることができます。この主屋には『対影楼(たいえいろう)』の呼称があったそう。

庭園の向こうには、岩出山城址の断崖を見ることができます。

館内にはこの他にも展示コーナーがありました。

 

外へ出て庭園を歩きます。

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こちらは浮島に建つ茶屋。

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庭園は池をぐるっと回るように歩くことができます。回遊式池泉庭園というそう。

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浮島の松、蓮の葉。

 

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対岸から有備館を見た景色。

この庭園は、岩出山伊達家4代村泰が整備し、仙台藩5代伊達吉村をもてなしたそう。

先ほどの茶屋へ招いたりしたのでしょうか。

 

もともとは他にも複数の建物があり、隣接する『有備館の森公園』は馬場・的場として使われたようです。

 

さて、有備館を出て周辺をぶらぶら歩いてみます。

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有備館前の通り。右が有備館の敷地です。

この先の十字路を右に折れ、酒造店の前を通って、川が流れる裏手へ回り込みます。

 

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有備館城址の間に流れる川。お堀ですね。

 

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所どころに段差が造られています。専門用語で落差工というそう。

 

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岩出山城址の断崖が現れます。有備館の庭園は、この断崖を借景として用いています。

 

有備館の森公園に出ると、川の説明がありました。

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この川は「内川」と呼び、世界かんがい施設遺産(初めて聞いた)に登録されているそう。

伊達政宗の指示により掘られたもので、岩出山地域を貫流したのち、大崎耕土へ用水を供給しています。

大崎耕土(おおさきこうど)は、大崎市に広がる田園地帯で、こちらは世界農業遺産に認定されています。

伊達政宗は仙台の『四ツ谷用水』を整備したことでも知られていますが、内川での経験が活かされていたかもしれませんね。

 

次は町歩きの続きと、岩出山城へ行きます。

城址には岩出山のシンボルとも言える伊達政宗があります。

 

【宮床伊達家】隠し砦の覚照寺

もとじろうです。

 

宮床伊達家の史跡めぐり、続編です。

今回は宮床伊達家の墓所を訪れ、その歴史を見ていきます。

前回の記事はこちら、

 

宮床伊達家廟所

国道457号線沿い、覚照寺に宮床伊達家の廟所はあります。

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墓がいくつかの場所にわかれているので、地図を頼りに見ていきます。

 

まずは、伊達宗房公夫妻の墓へ。階段を上がって行ったところにあります。

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左が宮床伊達家初代、伊達宗房の墓。右が夫人、の墓。

もとはそれぞれ霊屋が建っていたそうですが、明治初年に壊されてしまったようです。

下が石畳になっていますが、当時のものでしょうか。

 

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初代宗房公は、仙台藩二代伊達忠宗と、側室小笹の子で、政宗の孫にあたります。

わずか4才で田手氏に婿養子として入り、田手姓を名乗ることに。その際は、岩手県口内村(北上市)に移ったよう。

十四才のとき、伊達姓を許され、一門に列せられた。

翌年、在所を宮床村に移し、小野村を合わせて3000石となる。築城、屋敷割、社寺の建立等に力を尽くし、夫人松と共に厚く神仏を崇め宮床のいしずえを築いた。

姓名で 伊達→田手→伊達

住居で 仙台→岩手→宮床

という変遷を辿り、晴れて宮床伊達家初代領主となっています。

 

宗房の墓より奥にある慶雲院(宗房の母:山戸土佐の娘:小笹、たけ)の墓。

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上の年表で初めのところに、「生母菩提のため、慶雲寺建立、後に覚照寺と改める」とあるので、このお墓が覚照寺のもとになったということですね。

方形の礎石が残っています。これは霊屋の跡だそう。

 

茨城県竜ケ崎市のHPに、慶雲院の紹介文があります↓

山戸土佐という人物の娘で、94歳まで生きたそう。

龍ケ崎は伊達藩でした|龍ケ崎市公式ホームページ

 

写真には撮っていませんが、このさらに奥には法源円明院の墓があります。

年表に「延宝三年 生母の両親菩提のため、清心庵を慶雲寺地内に建てる」とあるので、祖父母の墓ですね。もとは庵があったようです。

 

さて、以降の代々の墓は別の場所にあります。

敷地内は、山城のような道ができています。

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屈折して曲がる石垣。

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その先にお墓が並んでいました。

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いかにも格式高い墓であることが伺えます。こういった形状は大名型と呼ぶそう。

亘理伊達家の宝篋印塔も立派なものでしたが、こちらも風格があります。

笠が苔むしている感じがいいですね。

 

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ズラっと。

 

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反対から振り返った様子。木々に囲まれ、静かに佇んでいます。

亘理のときもそうでしたが、廟所に入ると時が止まったような感じがします。

やはり聖域と言うべきか、厳かな雰囲気が漂っていました。

 

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奥にある子守地蔵。

 

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説明にありますが、初代宗房の長子、伊達吉村慶雲寺を改め、覚照寺を建立

また、ここにある廟所を造営したそう。”一種の砦を形作っている”とあるように、屈折した石垣や、土塁が築かれています。

 

この吉村公ですが、仙台では名君として名高い殿様です。

宮床伊達家の出身ですが、田村家の養子を経て仙台藩綱村公の養子となり、やがて5代仙台藩となります。分家から本家へ移って後に藩主、ということですね。

その功績には、破綻状態にあった藩の財政を立て直したことなどがあります。

また、『暴れん坊将軍』で有名な徳川吉宗とも親交が深く、徳川家に吉村公を讃える記録が残っているそう。

宮床ではそのような名君の出身地であることを、誇りに思っているようです。

 

宮床伊達家の方は次男、村興から続いていくことになります。

 

道を戻って、寺の反対側へ行きます。

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法林院(宗房の正室の墓。

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え、夫人の墓はさっき見たじゃん、と思われるかもしれません。

あえてスルーしましたが、先ほどの夫人、松は継室(後妻)です。

初めに4才で婿養子に入った際の、田手高実の娘正室ですが、宗房が22才のときに、若くして亡くなっています。

本名、生年の記録も無いようで、どのような人物かわかってないようですが、宗房にとっては幼馴染であり、思い入れが強かったのではないでしょうか。

31才になってから片倉景長の娘、松を迎えています。

(※各年齢は数え年のもの)

 

話は少し変わりますが、実はこのとき宗房公と松夫人で、伊達家と、片倉小十郎片倉家が繋がっているんですね。

伊達吉村公と、宮床伊達家2代村興は、伊達家と片倉家の流れを受けています。

 

寺の敷地内には、『東日本大震災復興記念庭園』が造られていました。

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いくつかの墓と仏堂のようなものがありますが、何かはわからず。

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最後に宝蔵で知った話を紹介します。

幕末、宮床では8代宗賢公の主導で大砲が造られ仙台藩に納めていたそう。宮床川からは砂鉄が採れたため、精錬して砲身にしていたようです。

そういった因果か、戊辰戦争時、覚照寺に「額兵隊」という西洋式軍隊が集結していたよう。仙台藩の精鋭部隊だったようですが、実戦の機会なく藩が降伏、覚照寺にて不穏な動きを見せるも、説得されて函館の旧幕府軍のもとへ渡ったとのこと。

もともと砦の様相を見せる覚照寺ですが、大砲などの兵器が揃えば、さながら要塞のようであったかもしれません。

額兵隊の存在自体、初めて知ったので興味深い話でした。

 

 

さて、今回の宮床はこんなところです。

城跡などまだ行けていない場所もあるので、また追加していきます。

仙台藩一門第二席、亘理伊達家についてはこちら、