こんにちは、もとじろうです。
伊達家分家シリーズ第2弾
今回は、仙台藩一門第七席宮床伊達家についてです。
宮床(みやとこ)は、仙台市の北に接する地域で、七ツ森という七つの山があることで知られます。
そんな山間の地域、宮床を治めた宮床伊達家からは、名君伊達吉村も生まれています。
宮床
こちらは宮床宝蔵(みやとこたからぐら)という郷土資料館。
大人は210円で見学できるのですが、かなりの情報量があり、正直210円でいいの? というくらい力が入っていました。博物館好きは来館必須です。
こちらは館内から撮った宮床の風景。奥に七ツ森が見えています。
七ツ森は、みなボコボコと独立して立っているのが特徴で、写真のような山が七つあります。
これは、朝比奈三郎という大男が土を運んで造ったという伝説があります。
古くは信仰の山で、山伏(修験者)が一晩のうちに七つの山を駆け抜けるなどしたそう。
山はそれぞれ、笹倉山、松倉山、撫倉山、大倉山、蜂倉山、鎌倉山、遂倉山といい、「倉」の字が付いています。これは倉=座(くら)ともされ、神様がいる場所という意味だそうです。
宝蔵の裏の丘を登ります。すぐ登れます。
隣の山に、田手岡館という宮床伊達家の居城がありました。
宮床伊達家初代領主は、伊達宗房。
宗房は伊達政宗の孫で、4歳のときに田手氏(たでし)の婿養子に入るのですが、その後また、伊達姓を名乗ることを許され、仙台藩一門に列せられています。
宗房としては一度田手姓になったのち、再び伊達姓に戻ったということですね。
ただ、その田手氏ももともと伊達家の分家のようで、本家と区別するためか、発音の似る「田手氏」を名乗っていたようです。
城跡に訪れることもできるようですが、今回は行ってません。
さて、丘を降りてきたところ、宝蔵の敷地内に茅葺屋根の家があります。
旧宮床伊達家住宅。こちらは見学無料です。
もとは別の場所にあったものを移築したそう。
明治維新になり、最後の殿様、宮床伊達家十代、宗廣がお館下がりとなり、この屋敷に移住。屋敷は以後伊達家の住宅として使われてきました。
建築のことはわからないのですが、東北においては皆無に等しい「版築」という工法が用いられるなど、随所に格式の高さが伺えるそう。
この伊達宗廣さんは、9歳で領主になるも、その後版籍奉還。帰農し、養蚕などの産業を奨励、学校教育にも力を入れ、宮床の村長も努めたようです。
中に入ることができます。
5月だったので人形が飾られていました。
いぐさの香りが落ち着く…。(しばらく寝そべる)
家の前にはこんなものが。
松井鉄五郎という力持ちが、20人でも持ち上がらなかった大きな一枚石を、一晩のうちに一人で川に架けて、橋にしたそう。
この橋でしょうか。さすがに20人いたら運べそうですが、小さく切られたのかな?
四辻山とありますが、宮床小学校のある場所が四辻の地名になっているようです。
宝蔵の前の通りは、昔は武家屋敷が並んでいたそう。
宮床伊達家では、いよいよ青葉城が落城となった際、伊達本家を迎え入れる考えが代々伝えられていたそうです。
実際、青葉城を裏から出て、竜ノ口渓谷、郷六、根白石を経て宮床に至るというルートがあります。
また、伊達吉村公が宮床から本家へ入っていますが、そういった本家での有事に備えて、宮床に血縁の近い家を置いたと考えられています。
武勇に名高い亘理伊達家、白石の片倉家を県南に置き、仙台の北側に近い血縁の宮床伊達家、岩出山伊達家を置いたところに仙台藩の意図があるようです。
スケールの大きい話になってきました。分家にも様々な役割があるんですね。
さて、次は宮床伊達家の御廟所へ行きます。
仙台市泉区の永安寺も、伊達家の有事の際の隠れ家とされていました。