もとじろう旅ブログ

海外バックパック旅や宮城周辺スポットについて書いてます

【宮床伊達家】山岳信仰と歴史の町 宮床

こんにちは、もとじろうです。

 

伊達家分家シリーズ第2弾

今回は、仙台藩一門第七席宮床伊達家についてです。

宮床(みやとこ)は、仙台市の北に接する地域で、七ツ森という七つの山があることで知られます。

そんな山間の地域、宮床を治めた宮床伊達家からは、名君伊達吉村も生まれています。

 

宮床

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こちらは宮床宝蔵(みやとこたからぐら)という郷土資料館。

大人は210円で見学できるのですが、かなりの情報量があり、正直210円でいいの? というくらい力が入っていました。博物館好きは来館必須です。

 

こちらは館内から撮った宮床の風景。奥に七ツ森が見えています。

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七ツ森は、みなボコボコと独立して立っているのが特徴で、写真のような山が七つあります。

これは、朝比奈三郎という大男が土を運んで造ったという伝説があります。

古くは信仰の山で、山伏(修験者)が一晩のうちに七つの山を駆け抜けるなどしたそう。

山はそれぞれ、笹倉山松倉山撫倉山大倉山蜂倉山鎌倉山遂倉山といい、「倉」の字が付いています。これは倉=座(くら)ともされ、神様がいる場所という意味だそうです。

 

宝蔵の裏の丘を登ります。すぐ登れます。

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隣の山に、田手岡館という宮床伊達家の居城がありました。

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宮床伊達家初代領主は、伊達宗房

宗房は伊達政宗の孫で、4歳のときに田手氏(たでし)の婿養子に入るのですが、その後また、伊達姓を名乗ることを許され、仙台藩一門に列せられています。

宗房としては一度田手姓になったのち、再び伊達姓に戻ったということですね。

ただ、その田手氏ももともと伊達家の分家ようで、本家と区別するためか、発音の似る「田手氏」を名乗っていたようです。

 

城跡に訪れることもできるようですが、今回は行ってません。

 

さて、丘を降りてきたところ、宝蔵の敷地内に茅葺屋根の家があります。

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旧宮床伊達家住宅。こちらは見学無料です。

 

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もとは別の場所にあったものを移築したそう。

明治維新になり、最後の殿様、宮床伊達家十代、宗廣がお館下がりとなり、この屋敷に移住。屋敷は以後伊達家の住宅として使われてきました。

建築のことはわからないのですが、東北においては皆無に等しい「版築」という工法が用いられるなど、随所に格式の高さが伺えるそう。

 

この伊達宗廣さんは、9歳で領主になるも、その後版籍奉還。帰農し、養蚕などの産業を奨励、学校教育にも力を入れ、宮床の村長も努めたようです。

 

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中に入ることができます。

 

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5月だったので人形が飾られていました。

いぐさの香りが落ち着く…。(しばらく寝そべる)

 

家の前にはこんなものが。

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松井鉄五郎という力持ちが、20人でも持ち上がらなかった大きな一枚石を、一晩のうちに一人で川に架けて、橋にしたそう。

 

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この橋でしょうか。さすがに20人いたら運べそうですが、小さく切られたのかな?

四辻山とありますが、宮床小学校のある場所が四辻の地名になっているようです。

 

宝蔵の前の通りは、昔は武家屋敷が並んでいたそう。

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宮床伊達家では、いよいよ青葉城が落城となった際、伊達本家を迎え入れる考えが代々伝えられていたそうです。

実際、青葉城を裏から出て、竜ノ口渓谷郷六根白石を経て宮床に至るというルートがあります。

また、伊達吉村公が宮床から本家へ入っていますが、そういった本家での有事に備えて、宮床に血縁の近い家を置いたと考えられています。

武勇に名高い亘理伊達家、白石の片倉家を県南に置き、仙台の北側に近い血縁の宮床伊達家岩出山伊達家を置いたところに仙台藩の意図があるようです。

 

スケールの大きい話になってきました。分家にも様々な役割があるんですね。

 

さて、次は宮床伊達家の御廟所へ行きます。

仙台市泉区永安寺も、伊達家の有事の際の隠れ家とされていました。

【亘理伊達家】二代伊達宗実と柴田親子の悲劇

もとじろうです。

 

亘理町の史跡めぐり、続編です。

前編はこちら、主に亘理伊達家の御廟所について書いてます。

 

 

稱名寺

大雄寺の西側、国道6号を越えた先に稱名寺称名寺:しょうみょうじ)があります。

ここでは、亘理伊達家2代伊達宗実(だてむねざね)の歴史を少しだけ見ることができます。

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こちらが本堂。そしてその脇に、

 

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どん。

なんと樹齢700年以上の椎ノ木鎌倉時代でしょうか。すごすぎる。

 

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国の天然記念物に指定されています。

 

さて、その奥にもう一本、大きな木があります。

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こちらはツブラジイ、樹齢300年以上。

根元には五輪塔と石灯篭、供養塔が立っています。

左手の五輪塔は、荘厳院(宏:弘、阿茶の局、果学院)の墓

荘厳院は、伊達政宗の側室で、亘理伊達家2代伊達宗実の母親です。

というのも実は、初代伊達成実は子供が早世してしまっており、伊達宗家から養子が迎えられているんですね。(2代宗実は、政宗の9男)

荘厳院は政宗の側室でしたが、子の宗実と共に亘理に移って来たようです。

ちなみに「阿茶の局」の別名がありますが、家康の側室とは別人ですね。

 

右手の供養塔は、長寿院の墓。こちらは2代宗実の側室だそうです。

 

2代宗実と正室の墓は、亘理伊達家の御廟所にあります。

 

ツブラジイの根元には、他にもお墓が。

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ここでは何とも悲しいエピソードが語られています。

上に説明した2代宗実が、荒浜鳥の海で狩猟の後の宴席を開いていると、3人の酔っ払いが絡んできて、家来の柴田彦兵衛がやむなく1人を切り捨てます。

しかし、その男は実は最上藩(山形)の足軽でした。そこで最上藩主が「彦兵衛を成敗せよ」と詰め寄り、仙台藩からも同様に言われます。

2代宗実は「己を罰せよ」と彦兵衛をかばって聞かず、遂には出奔を決意

すると彦兵衛の父(常弘)は、主君に迷惑はかけられないと、彦兵衛と共に、ここ称名寺にて切腹します。彦兵衛はわずか16才。

これにより主君の出奔は免れたということでしょう。

 

ちなみにですが、柴田常弘は2代宗実の叔父にあたるようです(宗実の母、荘厳院の弟)。つまるところ、彦兵衛は宗実の従兄弟ですね。一連の騒動は宗実にとって堪えがたいものだっただろうと想像します。

 

こういったエピソードを目にするたび、大変な時代だと思わされます。

なぜ切ってしまったんだとも思いますが、足軽が宗実に対して相当な無礼を働いたのでしょう。

宗実は養子でしたが、ここでまた亘理伊達家が途絶える危機に瀕したんですね。

家を存続させるということは、様々な犠牲の上に成り立っているのでしょう。

 

上の写真では、縦に並んだ3基の墓の、奥から常弘(父)、その妻、彦兵衛です。

 

さて、話変わって境内を散策します。

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枯山水。朱色の門が映えていました。

 

そして、庭園の細道を抜けた先にあったのは…

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どん。

いきなり現れたのでびびりました。

まさか、タイで見たような仏塔にここで遭遇するとは笑

 

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仏像が彫られています。

日本でこのような仏塔が建つのは珍しいのではないでしょうか。

少しだけタイ気分が味わえるかもしれません。

 

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こちらは水琴窟。涼やかな音が聞こえます。

 

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蓮池もあります。

 

また、ここ稱名寺には、武石胤盛頼朝公から与えられた仏像があるそう。

胤盛については、前編の方に書いてあります。

 

鳥の海

上に述べた悲劇の発端になった場所、鳥の海です。

汽水湖という湖沼の一種で、海水と淡水が混じっているそう。内陸の海という感じですね。

伊達家が狩猟をしていたということですが、名前の通り、鳥が多く飛来していたのでしょう。

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中ほどに浮島があり、橋が架かっています。

島は公園になっていたようですが、震災の被害を受け、現在は立ち入ることができません。以前は多くの木が植わっていたそうで、全く景色が変わってしまっています。

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橋の中ほどから陸側を向いた写真。

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鳥の海の北側に位置する荒浜は、江戸時代に東回り航路の起点として、米倉が並んだそう。そのうち最上藩のものが、柴田親子事件に繋がったんですね。

 

亘理町の中心街から海へ向かう際、道路の途中に『津波浸水区域』の標識がありましたが、その海からの遠さに驚かされます。

海に近付くほど、更地になった土地が広がり、被害の大きさを感じずにはいられませんでした。

『わたり温泉 鳥の海』で温泉に入りましたが、周りの風景に言葉を失います。

一方で新しい観光施設が造られ、活力を取り戻しつつあるのも事実です。名物のはらこ飯ホッキ飯をぜひ食べに来てください。温泉は海が見える露天があります。

 

今回、亘理町で亘理伊達家の歴史を見てきましたが、

他にも伊達家分家シリーズとして訪れていきたいと思っています。

亘理氏の涌谷伊達家もいつか行ってみます。

【亘理伊達家】 政宗の右腕≪猛将≫伊達成実の町をめぐる

こんにちは、もとじろうです。

 

今回は宮城の県南、亘理町(わたりちょう)についてです。

歴史的には、伊達家の分家である、仙台藩一門第二席亘理伊達家が治めた土地で知られます。

中でもその初代、伊達成実(だてしげざね)は、僕が好きな武将でもあります。

伊達政宗の母方の従兄弟でありながら、重臣の一人で、片倉小十郎が知将と呼ばれれば、成実は猛将、戦においては勇猛果敢な人物として知られました。

ちなみに亘理から西へ20kmほど行くと、小十郎が治めた白石市があります。

 

 

亘理の歴史

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ででどん。

こちらが町が誇る亘理城……ではなく、悠里館という文化施設です。

駅に隣接されているのですが、来るまで知らず、驚きました。

 

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階段から見た町の様子。

手前は常磐線亘理駅。奥の山を越えたところが角田市白石市はそのさらに向こう。

 

館内は郷土資料館になっており、亘理の歴史を無料で学ぶことができます。

これから史跡を回るうえでの、事前知識にもなります。

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古くは千葉常胤の三男、武石胤盛が、奥州合戦の功績で源頼朝により亘理郡を与えられ、のちに子孫が亘理氏を名乗るようになったそう。

その後、亘理氏は伊達家の傘下に入り伊達政宗の時代に、家臣の伊達成実を置いて亘理伊達家が続きます。(亘理氏は涌谷に移動)

明治時代になると、戊辰戦争により知行地を失い、亘理伊達家は北海道へ移住・開拓、北海道伊達市の基礎を築いたそう。

 

北海道に伊達市があることは知っていましたが、亘理伊達家がもとになっていたことは知らず、驚きました。

 

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成実の甲冑レプリカ。

前立ては毛虫を模しており、戦において後ろに退かないという意味があります。

政宗の従兄弟かつ重臣として、戦で何度も活躍しました。

 

さて、その伊達成実の霊屋、ならびに亘理伊達家の御廟所が町の外れにあります。

 

亘理伊達家御廟所(伊達成実霊屋)

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国道6号の西、亘理中学校の南に位置する大雄寺(だいおうじ)

ここに亘理伊達家の御廟があります。

 

立派な山門と仁王像。 

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本堂の彫刻がすごい。

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さて、御廟があるのは本堂がある場所ではなく、墓地の奥にあります。

離れたところからも屋根部分が見えるので、すぐにわかるかと思います。

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こちらが成実らの霊屋。

左が5代伊達実氏、中央は亘理伊達家の家祖伊達実元(成実の実父)、右の彩色の施されているのが初代伊達成実の霊屋。

亘理伊達家の中でも、このお三方が手厚く祀られています。

 

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特にその威厳を放っているのは成実公の霊屋。極彩色に彩られ、囲いがされています。

中には伊達成実木像が安置されているそう。

 

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成実公の霊屋の前には、4基の五輪塔が建っています。

これは殉死した家臣のもので、今なお主君を守るように並んでいます。

(※写真は柵の隙間から撮影)

ちなみに政宗公の亡き後、殉死した家臣は20名。……改めてすごい時代ですね。

 

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別角度。手前側にも2基の五輪塔があります。

 

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霊屋の裏に石碑群が見えていますが、初代と2代の家臣・侍女らの供養碑のよう。

 

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実元霊屋の前にある石碑。

傑山君世廟記」と呼び、実元霊屋建立の経緯が書かれているそう。

 

霊屋の脇には、亘理伊達家歴代のお墓が並んでいます。

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仏塔のようなお墓が並んでいますが、宝篋印塔(ほうきょういんとう)というもので、2代から5代夫人までが、この形のお墓になっています。

この一帯は厳かな雰囲気で、身の引き締まる思いがしました。

 

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敷地内には13代邦実までの墓石があります。

上にも書いた通り、14代から亘理伊達家は北海道に渡っており、伊達市の大雄寺に霊屋があるようです。

ところで伊達家は、瑞巌寺など臨済宗の寺が多いように思っていましたが、亘理伊達家は曹洞宗なんですね。

 

墓所についての詳細です。

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5代実氏は、岩出山伊達家の出身で、養子として亘理伊達家に入っています。

中興に力を尽くしたとありますが、成実実元とともに霊屋が建てられていることから、それだけ敬われていたことが伺えます。

 

ちなみに、北海道に渡ることになった14代邦成さんも岩出山の出身だそうで、数ある分家の中でも岩出山との繋がりの深さを伺えますね。

 

寺のある場所から、亘理町一帯を見渡すことができます。

中心部にはもともと、悠里館ではない、亘理城がありました(この日訪れたのですが、暗すぎたので再訪します)。

初代成実は町の整備にも優れていたそうで、城下町はマス目状に区画されています。

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さて、この景色が見える場所。霊屋の裏手なのですが、なんとなく土塁っぽいな~と思って写真を撮ったら、ビンゴでした。

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実はこの大雄寺、亘理伊達家の前に町を治めていた亘理氏の居城があったそう。

小堤城(おつつみじょう)と呼んだようです。これだけ見晴らしがいいので、城を建てるのに適していたでしょう。

その後、亘理伊達家が菩提寺を置いたということですね。

ちなみにこの亘理氏ですが、後に涌谷伊達家として仙台藩一門に位置付けられるようになります。

 

ちなみにちなみにこの場所、泉ケ入遺跡との標識が立っていました。

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どうやら土師器、須恵器など出土したようですね。

手前のこんもりしてるとこから出たのかな??

 

はい、前半はここまで。後半は2代宗実にまつわる史跡です。

【富谷宿】奥州街道72番宿場町を歩く-後編-

もとじろうです。

 

富谷宿歩きの続編です。前編はこちら、

  

富谷宿

しんまち通りを半分ほど来ました。

観光施設とみやどの向かい、写真右手に石造りの倉が見えています。

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その正体は、内ケ崎酒造店です。倉は酒蔵ですね。

軒下に杉玉が吊り下がっています。

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中ほどの様子。

 

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しんまち通りでも、この一角はひときわ目立っています。

内ケ崎家二代目作右衛門が酒造りを始めたそう。

 

大きな酒蔵ですが、実はこここそが本陣のあった場所です。

本陣とは、公家や大名が宿泊する高級宿のこと。

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宿場町で最も有力な家が本陣になることはよくあるようで、富谷宿でも内ケ崎家が本陣に任ぜられています。

松前や南部の大名らが訪れ、内ケ崎家の酒を楽しんだのでしょうね。

 

こちらは付近にある恋路の坂

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なんでも宮城出身の歌人原阿佐緒と学者の石原純(妻子持ち)が歩いた恋の坂だそう。……実際には略奪愛の坂ですね。ここを歩くと成功するかもしれません。

原阿佐緒さんは恋多き人だったようですが、宮床に記念館があるのでいつか訪れたいと思っています。

道は見晴らしの良い公園の方へと続いています。

 

さて、しんまち通りを奥まで来ました。

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ここには熊野神社があります。

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もともと別の場所にあったものを、宿場町開設の際に移転させたそう。

富谷宿の鎮守神ですね。

 

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神前幕に大きく伊達家の家紋が描かれています。

僕は反対から歩いてきましたが、実際にはこちらが宿場町の入り口になります。

 

さて、次はここから少し離れて富ヶ岡公園へ向かいます。

恋路の坂を抜けて、坂道を上がっていくと公園があります。

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高台になっていて、町の様子を眺めることができます。

奥には七ツ森も見えていますね。

原阿佐緒石原純の二人も宿泊がてら、この景色を眺めに来ていたのでしょう。

看板の説明によると、この公園ももとは内ケ崎家の所有地だったそうです。

 

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園内の石碑。

 

おまけ

最後に、しんまち通り北側の細い道を歩きました。

富谷葬祭の脇から入っていきます。

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内ケ崎酒造の裏側を見ることができます。(逆光で暗い…)

 

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はい、今回の富谷宿はこんなところです。

写真に撮った以外にも古い建物や、立派な門を構えている家があるので実際に歩いてみてください。

新しく建て替わっている部分もありますが、今でも宿場町としての風情を感じることができます。

僕も新しくオープンした『とみやど』に、そのうち行ってみたいと思います。

 

仙台市泉区には宿場町にも似た根白石があります。

定義山参拝客が多く訪れた町です。

 

【富谷宿】奥州街道72番宿場町を歩く-前編-

こんにちは、もとじろうです。 

 

今回は富谷市の宿場町、富谷宿ついてです。

富谷市は仙台の北に隣接する町で、近年はベッドタウンとして開発著しくあります。

僕にとっても小さい頃からイオンや、映画館で親しんだ町です。

そんな富谷には、古くから旅客を癒す宿場町がありました。

 

富谷宿(富谷新町宿)

富谷宿は、奥州街道72番目の宿場町で、元和4年、伊達政宗の命で設置されました。

仙台から北へ上って、七北田宿の次が富谷宿です。

その次の吉岡宿が少し先に造られており、仙台との間にもうひとつ宿場町が必要となって富谷に設置されたそう。

政宗の命を受けた内ケ崎筑後という人物が、宿場町づくりの中心になったそうです。

 

駐車場所はいくつかあるのですが、僕はしんまち公園に止めさせてもらいました。

西川に架かる橋を渡って宿場町へ。

 

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この通りは「しんまち通り」と呼ぶそう。

今は新しい建物も建っていますが、古くから商店が並ぶ通りであることがわかります。

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奥まで行くと立派な建物が。

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こちらは内ケ崎家の別邸

明治時代、内ケ崎作三郎という人物が醤油屋を営み、のちに政治など様々な分野で活躍したそう。

内ケ崎筑後が富谷宿を整備したのち、内ケ崎家は富谷において有力な家柄であったようで、今でも通り沿いには「内ケ崎」の名を冠す商店が多く残っています。

 

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敷地内に立派な庭園があるようですが、一般公開はされていません。

見づらくなっていますが、『対山閣』という建物が中ほどにあるそう。

 

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別邸の隣にある駐車場の奥に、ポツンと建つ門。民家の門のようです。

 

通りへ戻って進みます。

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江戸や明治じゃなくても、昭和の建物にも魅力はあります。軒先の椅子が良い。

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こちらは脇本陣跡(気仙屋)

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木造の門が目立っています。

 

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脇本陣は、本陣に次ぐ格式。

本陣というと、戦における陣営を思いがちですが、公家や大名が宿泊する高級宿のことです。

こちらの脇本陣には明治天皇が来ていたそう。どんな建物だったのか気になります。

 

宿場町らしさが出てきました。東北の諸大名らも、参勤交代の際にこの道を通っています。

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道を振り返った様子。

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また漆喰の建物が現れました。

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旧佐忠商店(冨谷宿)

もとは江戸時代に創業した呉服屋のようですが、旅籠でもあったんですね。店の前に関札(大名らが宿泊した証明)が飾られています。

南部田村の大名が来ていたよう。

店は今も、地元の特産品などを売る商店として営業しています。

建物は明治時代の建築だそう。

僕は飛騨の生まれなので、こういった建物を見ると昔を思い出しますね。

 

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こちらは、2021年新たにオープンの観光施設『とみやど』。

この日はまだオープン前でした。

中ほどでは内ケ崎作三郎の生家が記念館として公開されているそうなので、また改めて訪れてみたいと思います。

 

さて、真ん中あたりまで来ました。続きは後半で紹介します。

 

【根白石 史跡めぐり】新堰と満興寺

こんにちは、もとじろうです。

 

今回は、根白石めぐり第一弾で紹介しきれなかったものを紹介します。

第一弾はこちら。

 

 

新堰

第一弾で紹介した根白石村名起因の石から北へ進むと、やがて大きく左へ曲がるカーブへ差し掛かります。現在、大きな建物が建設中ですが、その脇の小路を抜けると新堰はあります。

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七北田川の川底に、コンクリートのゆるい坂が造られています。

 

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現在あるこの堰は後に造られたもの(平成16年)で、元は石積みの堰が200m上流にあったそう。災害の度に修復・補強し、現在の形になったようです。

 

また、元禄時代大越喜右衛門により、八沢川の底部に潜穴(くぐりあな・サイフォン)を空け導水したとあります。

上の写真で奥に青い水門が見えていますが、そこから細い水路に分かれます。

ここから農耕地を通って、東北電力の変電所の裏の溜め池(八沢川)へ通じています。

水路は延20数kmにも及び、七北田野山(将監団地)の将監堤まで続いている、泉区最大の水路となっている。(仙台市HPより)

航空写真で見るとわかるのですが、八沢川の溜め池のからさらに東へ用水路が続き、将監堤(将監沼)まで続いているのがわかります。

普段の生活の中では目立たない水路ですが、こうして見るとスケールの大きさに驚きます。

仙台で水路と言うと四ツ谷用水が知られていますが、この泉の水路も相当な工事がいっただろうと想像できます。

ずっと水路を追って行くのも面白いかもしれません。

 

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ここより下流明神堰についてはこちらの記事で触れています。

 

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周辺の景色。

昔をしのばせる根白石ですが、ここ数年は建て替えをよく目にするので、こういった景色も変わっていくかもしれません。

 

満興寺

さて、新堰から商店通りを進んで行くと、高長商店の裏手に満興寺(まんこうじ)があります。

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こちらが山門。

 

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満興寺山門は、元青葉城の辰ノ口門でありましたが、宝永六年(1709年)伊達家五代藩主吉村公により泉区福岡の永安寺に移築されたと言われています。明治に入り満興寺に移されました。

青葉城の門だったものが、永安寺を経て、ここへ移築されていたんですね。

永安寺は山中に隠れるようにして建つお寺で、伊達家の非常時の隠れ家とされています。

ただ、当時のものは老朽化が激しく、平成25年に新しく建て替えたそうです。来るのが遅かった…!

旧門の解体工事は東日本大震災当日の午前中だったそう。すごい。間一髪ですね。

 

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敷地はアスファルトで固められており、整然としている印象です。

 

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ツルツルの撫狐。寺にあるお稲荷さんは荼枳尼天として祀られます。

撫でるといいことがあるのでしょうか。

 

ちなみに満興寺の前には歯科医院が建っていますが、以前は村役場があった場所だそうです。今は跡形もないですが。

 

根白石地域は来るたびに景色が変わってきているので、度々訪れて記録に残したいと思っています。

 

満興寺山門が一時移築されたという永安寺についてはこちら。

 

【根白石 史跡めぐり】村名起因の石-弘安の碑

こんにちは、もとじろうです。

 

今回は、仙台市でも古い町並みを残す根白石(ねのしろいし)について紹介します。

仙台の中心街から見て北西部。泉ヶ岳などの山岳地帯に差し掛かる麓に根白石はあります。

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上は根白石から泉ヶ岳を見た写真。

泉ヶ岳は仙台の小学生が野外活動で登るなど、市民に親しまれる山です。僕も5年生のときに登って、みんなでカレーを作った思い出があります。

 

また、根白石は定義山(じょうぎさん)へ参拝する人らが通った町でもありました。

西方寺(定義如来への参拝客らが、山へ登る前に泊まったのが根白石でした。

宿場町として数えられているわけではないのですが、実際にはその役割を持った町です。

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写真は仙台でも人気の観光地、定義山

サンドイッチマンの歌にもある油揚げが名物。

 

 

根白石の村名由来

根白石の入り口にあたる位置に、村名の由来になった石が紹介されています。(上にある写真を撮った場所)
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源頼朝公が七ツ森で巻狩りのとき、白い大鹿が現れ、家来がここまで追って川向かいから矢を射ち、川を越え近づいたら大鹿ではなく「根の白い石」であった。

公は、見事な大石よと、腰をかけて巻狩りの手柄をしらべ、賞としたとき、この村を根白石村と呼ばせた。これを見た村人たちはここを判在家と呼んだという。

根白石の名付け親は頼朝公だったんですね。

東方遠征の最中、この土地に寄って狩りをしたそう。

七ツ森は根白石の北に並ぶ七つの山のことです。近いとは言っても数キロはあるので、それだけ家来が追ってきたことになります。

ちなみにこの家来というのは畠山重忠和田義盛とされているそう。

 

村人たちが呼んだ判在家の地名も、この石のある場所に残っています。

 

また、大石は洪水で消失するも、村民らがその位置に石神を祀って後世に伝えてきたそう。

上の写真にもある現在の大石は平成十年に設置されたもの。

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こちらの説明では、石神は享保十三年の設置とあるので、江戸時代半ばまで頼朝公の大石があったのかもしれません。

正確な発祥地は、裏手に流れる七北田川の右岸であると書かれています。

 

根白石 町歩き

さて、村名由来の石から進んで行くと商店が並び始めます。奥の突き当りには高長商店があります。
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通りにある酒屋さん。

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向いには八百屋、魚屋が並びます。

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ちなみに商店が並ぶこの通り、明治の頃は中央に水路が流れていたそう。 

突き当りの高長商店前を右折し、さらに道なりに進んで行きます。

 

次の通りでも突き当りに出ます。

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こちらの通りは、商店街とはまた違った風景が残ります。

T字路、カーブミラー、政治家ポスター。全部がこの風景に必要。

 

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来た道を振り返った様子。

 

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T字路を左に折れてから振り返った写真。

奥へ進んだところには、白石城や川沿いの桜の名所があります。

ちなみに根白石の白石城は、片倉小十郎で有名な白石市の城とは別物です。

 

また、歩いてみるとわかりますが、根白石の通りはかぎ型に曲がっています。

これは火事の延焼を防ぐためだったそうですが、城があったことも関係しているかもしれませんね。

 

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別角度。

 

弘安の碑

さて、先ほどのT字路を左折した道を進んで行きます。ここでも奥に泉ヶ岳が見えています。

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ここには『弘安の碑(こうあんのひ)』という石碑があります。

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左へ折れたところ、田園風景の中にポツンと。

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泉区内最古の石碑である。額面には梵字のばく、釈迦如来を刻んでいる。このような石碑は板碑(いたび)ともいわれ、亡くなった人の追善供養(ついぜんくよう)のため建てられたものと考えられている。

どういった人物のための供養だったかは、わかっていないようです。

石碑が建ったのは2度目の蒙古襲来があった頃の時代。この石碑と元寇の関連はないと思いますが、供養の対象がどのような人物であったのか、探ってみるのもおもしろいかもしれません。

 

その他、子供が百日咳にかかった際、願掛けをする風習があったことが書かれています。

似たような風習は松森のせきひき神様にもありました。

いずれも供養碑だったものが、後にちょっとした信仰の対象になっていたんですね。

弘安の碑の方は、「縛り地蔵」とも「セキシャブキの神様」とも呼ばれたそう。

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松森、国道4号線沿いの「せきひき神様」

 

先にも紹介したように、根白石は定義山への参拝客が通った町で、周辺には定義道が延びていました。定義道には今も、道しるべの石碑がいくつも残っています。

下の記事で定義道のひとつを紹介しています。

根白石の第二弾はこちら。