【登米】亀掛川氏、柴田外記らの居城『米谷城跡』
もとじろうです。
登米の東和町には、伊達騒動で知られる柴田外記が住んだ米谷(まいや)城跡があります。
近くの不老仙館についてはこちら
米谷城跡
不老仙館から見て北西方向にその城跡があります。
県道202号を北へ進んで行くと、石垣が見えてきます。
元防衛大臣の看板が目立ってますね…笑
説明によると、鎌倉時代である建治二年に、葛西氏の家臣亀掛川(きけがわ)氏が居城として建てたのが始まり。
時代は下って
このあたりは政宗の時代です。葛西氏は豊臣秀吉と対峙することとなり、滅ぼされます。
宮城では重要な歴史、奥州仕置というものですが、このとき亀掛川氏も出陣しているようです。
その後、政宗の家臣である柴田外記(しばたげき)が入城、60年ほど過ごしますが、伊達騒動(寛文事件)の後、柴田家は船岡(現柴田町)に所替え。
柴田外記はこの事件で、江戸の酒井邸にて討たれてしまっています。
その後、高泉兼康がここより西の地区である中田町黒沼から米谷に所替え。
明治三年廃藩置県で国に没収され城、城郭(石垣等)は取り壊されたが、明治七年に旧邑主高泉氏に払い下げられた。現在本丸跡は更地になり、伊達政宗時代に改修された北上川の案場、曲袋のS字型の流れが見られる。又当時の侍詰め所跡には高泉氏の住宅が明治十年ごろに建てられて現在令和に至る。
城主の流れとしては、亀掛川氏→柴田外記→高泉氏となるようですね。
現在は私有地であるので周りの様子を見ていきます。
石垣は奥にも伸びているのですが、こちらは新しいものだと思います。
おそらく当時のものは初めの角の部分だけですね。
離れて見た敷地の様子。写真右手に小さく石垣が見えています。
こうして見ると特別高い場所ではない印象ですね。堤防があるせいかもしれませんが。
石垣の辺りから土が盛られて小高くなっているのは確かです。
城の前には北上川が流れています。
看板の説明にもあったように、このあたりは大きくS字に曲がっていますが、伊達政宗の改修によるものだったんですね。
案場(安場)、曲袋は何のとこかと思ったら地名のようでした。
歴代の城主らはこういった眺めを見ていたのかもしれません。
城の背後は、山が続いているので川沿いの小高い丘は城を置くのに適していたのでしょう。
ちなみに高泉氏がもといた黒沼館跡が川向うにあります。
現在は諏訪公園として整備されていますが、それを伝える標識が立っているようです。
城跡前の通り。
長閑な雰囲気があっていいですね。奥のカーブのところに昔ながらのいい感じの商店があります。
不老仙館の回でも触れましたが、付近には旧米谷館(不叶館)跡とされる場所もあるようです。
米谷大橋から見たその小山。
今は秈荷神社(ぜんかじんじゃ)が建つ場所です。
神社庁のHPでは、” 亀掛川氏が守護神として居館(米谷館)の地に社殿を建立”としています。
この城については詳細がわかっていないようですが、亀掛川氏が建治二年の当初建てたのはこちらの方で、のちに移ったということでしょうか。
今回は時間や天候の関係で行きませんでしたが、いつか訪れてみたいです。