もとじろうです。
岩ケ崎史跡めぐりの続編です。
今回は岩ケ崎伊達家2代、伊達宗信の墓がある寺へ訪れます。
前回はこちら、
熊野山 黄金寺
伊達政宗の五男、伊達宗綱が岩ケ崎伊達家初代領主として置かれたことは前回書きました。
しかし、この宗綱、16才という若さで亡くなってしまったそうです。
そのため伊達政宗の六男、伊達宗信が2代目領主として置かれることになりますが、
この宗信までもが若くして亡くなってしまい、跡取りの無いまま岩ケ崎伊達家は断絶してしまいました。
その2代目伊達宗信の墓が、町の北西に位置する黄金寺(おうごんじ)にあります。
入口の標識には『伊達宗信 古内重定夫妻之墓』と書いていました。
古内氏は、「伊達騒動」の古内志摩義如などで知られる伊達家重臣の家柄ですね。
この古内重定は、2代伊達宗信に仕えていたのでしょう。
こちらが本堂。
金ピカの黄金に輝く姿を期待したでしょうか。僕は少し期待しましたが、そんなわけありませんでした笑。むしろ質素な趣ですね。
敷地が結構広いのですが、左手の方に墓がありました。
この階段を上ると、
墓が並んでいます。
中でもひと際目立っていたのがこちら。
珍しい形をしていますが、五輪塔の一種でしょうか。近くで見ると結構大きいです。
特に説明は無かったのですが、位置や形状から見てこちらが伊達宗信の墓でしょうか。
周りで見守るようにして建つのは従者たちの墓だと思われます。
これまでいろいろ墓を見てきましたが、この形状は初めてでした。
さて、階段を降りて中段を奥へ進むと2基の墓が建っています。
対に建てられている様子から、こちらが古内重定夫妻の墓でしょうか。
四角い方が重定かな?
本堂の脇、観音像の台座に説明書きがありました。
かつて七堂伽藍を誇った黄金寺は三度の火災に遭い、宝物記録などが焼失してしまったそう。現在の本堂は明治2年の造営。
伊達宗信生母の墓、古内重定夫妻の墓の他に、茂庭氏一族、上遠野家などの墓が在るとあります。
生母の墓もあるんですね。ただ、どれが誰の墓なのかは、はっきりとはわかりませんでした。
他の分家にあったように墓がずらっと並んでいるものとは異なりましたが、由緒正しき寺であることには間違いないですね。
清水寺と熊野神社
黄金寺前の通りをさらに進んで行くと、清水寺(せいすいじ)と熊野神社が隣り合っています。
清水寺はその庭園が名勝に指定されているそう。
人気が無い山中ですので、獣対策をして来た方が良さそうです。
先に写真右手の清水寺から見ていきます。
ご住職は現在、仙台の寺にいるようでこちらは留守にしているとのこと。
でも草を刈ったばかりだったので、時々管理に来ているのですね。
こちらがその庭園。蓮池があります。
不動明王像でしょうか。
奥に立ち並ぶ墓。何かの供養碑でしょうか。
さて、次は隣の熊野神社へ行ってみます。
鳥居をくぐって進みます。
なにやら囲いがされていますが、亀の形に掘られた大きな石でした。『亀名石』というそう。
階段をひたすら登ります。
ここで拝殿を正面から撮影したのですが、うまく撮れていませんでした…。
代わりに拝殿脇と裏にある本殿の写真。
当社は延暦10年(791)征夷大将、坂上田村麻呂の東伐下向の際勧請により建立されたとの伝えあり。明治以前は熊野山黄金寺境内に在りしが明治4年今の地に奉遷する。同5年11月村社に列せられる。
坂上田村麻呂にまつわる神社は東北各地に多いですが、ここもその一つのようですね。
田村麻呂は征夷大将軍という役職ではありましたが、東北の地においても長く敬われてきたことを感じます。
神社は先ほど訪れた黄金寺境内にもともとあったそう。そんな繋がりがあったんですね。
さて、岩ケ崎には他に鶴丸城跡があるのですが、今回は訪れなかったので、代わりに九戸政實という人物の史跡を見ていきます。