もとじろうです。
岩出山伊達家にまつわる史跡をめぐるシリーズ、第3回です。
今回は岩出山伊達家の霊廟を訪れます。
前回はこちら、
岩出山伊達家霊廟
岩出山城から南へ数百m、蛭沢川を渡ったところに岩出山伊達家の霊廟があります。
霊廟は松窓寺(しょうそうじ)が管理しており、境内の真向かいに位置しています。
蛭沢川に架かる赤い橋を渡ったところに松窓寺はあります。
駐車スペースは寺の入り口に1、2台ほど。
道路左手に入口が見えると思います。民家の入り口のようにも見えますが、大丈夫です。ここを入っていきます。
初代宗泰公は、伊達政宗の四男として京都の藩邸で生まれています。
寛永15年(1638)伊達郡梁川5万石の大名取立の内命を受け江戸に登る途中、疱瘡にかかり急逝した。遺骸は、現在地に埋葬、霊廟を建立して遺像を安置し暑く奉祀した。
もとは初代宗泰と2代宗敏の霊廟が建っていたそうですが、残念ながら明治に焼失したようです。
桃山式だそうで、どんな建物だったのか気になりますね。極彩色に彩られていたのではないでしょうか。
とても雰囲気ある道が続いています。杉並木と小さい花が綺麗ですね。
ぶれてしまいましたが、奥に墓が並んでいます。
まずはこちらが、岩出山伊達家初代伊達宗泰の墓です。他より高い位置にあります。
灯篭が2基建てられていますね。
脇には墓碑がいくつか並んでいます。先の説明文にありましたが、これは殉死者のものだそう。左右に5基ずつで、計10人の家臣が殉死したということですね。
写真は左の5基のみ写っています。
政宗公を追った殉死者は20人とされていますが、宗泰公の10人というのも多いですね。
それだけに慕われていたのでしょうか。
こちらは4代村泰(右)と夫人(左)の墓。
このように代々の領主と夫人の墓が並んで建っています。
2代宗敏の墓だけポツンとしてますが、夫人の墓はどこへ行ったのでしょう…。
別のお寺にあるとは思うのですが。
反対から見た様子。
亘理や宮床の伊達家の墓と比べるとシンプルな造りではありますが、こうして並んでいるところを見ると、やはり厳かな心地になります。
離れた位置に何やらもう一基建っているものがあります。
他とはまた違って細長く尖っています。
「十代邦直公記念碑」だそう。これは、10代邦直の北海道開拓の偉業を讃えた顕彰碑とのこと。
伊達家で北海道開拓と言うと、亘理伊達家が北海道に渡って伊達市を築いています。
その時の亘理伊達家14代伊達邦成は、実はこの邦直の弟です。岩出山から亘理へ養子に入っていたんですね。
つまり、兄の岩出山伊達家10代邦直と、弟の亘理伊達家14代邦成は、兄弟で北海道開拓に渡っています。
そして、邦直は家臣とその家族340人を率いて当別町を開拓したそう。
墓はそちらにあるのかと思いきや、なんと邦直公は当別神社の祭神として祀られているそうです。
亘理の邦成公は、札幌の開拓神社で他の開拓者たちと共に祀られているよう。
北海道開拓は、伊達家が戊辰戦争に敗れたことが関係していますが、逆境を乗り越えようとする邦直・邦成兄弟の志の強さを感じます。
ちなみに邦成さんより先に、伊達実氏も岩出山から亘理へ養子に入っています。亘理伊達家5代領主となり、中興に力を尽くしたとされています。
山岡志摩重長の墓
さて、松窓寺には山岡志摩という人物の墓があるようです。
ただ、写真を撮り損ねてしまいました。ここではありません。
もとは伊具郡金津村にあった松窓寺を、山岡志摩がここへ移したそう。
伊具郡は宮城の県南地域ですが、金津村は現在残っていないようですね。角田市立金津中学校のあたりだと思います。
山岡家は代々、伊達家世臣の家柄で、志摩は初代宗泰が城主に任じられた際、まだ幼い宗泰を助けた重臣のよう。
又、文禄の役に従軍し抜群の戦功により豊臣秀吉から恩賞をうけ山岡志摩の名を許された。
大坂夏の陣には、家康より陣羽織を拝領するなど武功高い名臣であった。これが今も伊達家に伝わる白鷺の毛の交ぜ織りの陣羽織である。
朝鮮出兵や大阪の陣で活躍し、秀吉と家康のそれぞれから恩賞を受けるとは、すごい人物だったんですね。
もとの名は山岡重長で、どうやらゲームの『信長の野望』にも登場しているようです。不勉強でした…。
はい、ひとまず伊達家分家シリーズ第3弾の岩出山伊達家はここで区切りです。
分家をそれぞれ見ていくと、点と点が繋がって面白いですね。
岩出山はまた訪れることがあれば追加します。『感覚ミュージアム』とかも行ってみたいんですけどね。
岩出山伊達家と同じく、北海道を開拓した亘理伊達家についてはこちら。
岩出山出身の伊達実氏の霊屋もあります。
前回と前々回はこちら、