もとじろう旅ブログ

海外バックパック旅や宮城周辺スポットについて書いてます

【宮床伊達家】隠し砦の覚照寺

もとじろうです。

 

宮床伊達家の史跡めぐり、続編です。

今回は宮床伊達家の墓所を訪れ、その歴史を見ていきます。

前回の記事はこちら、

 

宮床伊達家廟所

国道457号線沿い、覚照寺に宮床伊達家の廟所はあります。

f:id:sendai-deep:20210809171002j:plain

f:id:sendai-deep:20210809171702j:plain

墓がいくつかの場所にわかれているので、地図を頼りに見ていきます。

 

まずは、伊達宗房公夫妻の墓へ。階段を上がって行ったところにあります。

f:id:sendai-deep:20210809180923j:plain

f:id:sendai-deep:20210809183113j:plain

左が宮床伊達家初代、伊達宗房の墓。右が夫人、の墓。

もとはそれぞれ霊屋が建っていたそうですが、明治初年に壊されてしまったようです。

下が石畳になっていますが、当時のものでしょうか。

 

f:id:sendai-deep:20210809183438j:plain

初代宗房公は、仙台藩二代伊達忠宗と、側室小笹の子で、政宗の孫にあたります。

わずか4才で田手氏に婿養子として入り、田手姓を名乗ることに。その際は、岩手県口内村(北上市)に移ったよう。

十四才のとき、伊達姓を許され、一門に列せられた。

翌年、在所を宮床村に移し、小野村を合わせて3000石となる。築城、屋敷割、社寺の建立等に力を尽くし、夫人松と共に厚く神仏を崇め宮床のいしずえを築いた。

姓名で 伊達→田手→伊達

住居で 仙台→岩手→宮床

という変遷を辿り、晴れて宮床伊達家初代領主となっています。

 

宗房の墓より奥にある慶雲院(宗房の母:山戸土佐の娘:小笹、たけ)の墓。

f:id:sendai-deep:20210809183527j:plain

上の年表で初めのところに、「生母菩提のため、慶雲寺建立、後に覚照寺と改める」とあるので、このお墓が覚照寺のもとになったということですね。

方形の礎石が残っています。これは霊屋の跡だそう。

 

茨城県竜ケ崎市のHPに、慶雲院の紹介文があります↓

山戸土佐という人物の娘で、94歳まで生きたそう。

龍ケ崎は伊達藩でした|龍ケ崎市公式ホームページ

 

写真には撮っていませんが、このさらに奥には法源円明院の墓があります。

年表に「延宝三年 生母の両親菩提のため、清心庵を慶雲寺地内に建てる」とあるので、祖父母の墓ですね。もとは庵があったようです。

 

さて、以降の代々の墓は別の場所にあります。

敷地内は、山城のような道ができています。

f:id:sendai-deep:20210809171344j:plain

 

屈折して曲がる石垣。

f:id:sendai-deep:20210809171849j:plain

 

その先にお墓が並んでいました。

f:id:sendai-deep:20210809173247j:plain

f:id:sendai-deep:20210809173406j:plain

いかにも格式高い墓であることが伺えます。こういった形状は大名型と呼ぶそう。

亘理伊達家の宝篋印塔も立派なものでしたが、こちらも風格があります。

笠が苔むしている感じがいいですね。

 

f:id:sendai-deep:20210809173516j:plain

ズラっと。

 

f:id:sendai-deep:20210809173609j:plain

反対から振り返った様子。木々に囲まれ、静かに佇んでいます。

亘理のときもそうでしたが、廟所に入ると時が止まったような感じがします。

やはり聖域と言うべきか、厳かな雰囲気が漂っていました。

 

f:id:sendai-deep:20210809175254j:plain

f:id:sendai-deep:20210809175407j:plain

奥にある子守地蔵。

 

f:id:sendai-deep:20210809175433j:plain

説明にありますが、初代宗房の長子、伊達吉村慶雲寺を改め、覚照寺を建立

また、ここにある廟所を造営したそう。”一種の砦を形作っている”とあるように、屈折した石垣や、土塁が築かれています。

 

この吉村公ですが、仙台では名君として名高い殿様です。

宮床伊達家の出身ですが、田村家の養子を経て仙台藩綱村公の養子となり、やがて5代仙台藩となります。分家から本家へ移って後に藩主、ということですね。

その功績には、破綻状態にあった藩の財政を立て直したことなどがあります。

また、『暴れん坊将軍』で有名な徳川吉宗とも親交が深く、徳川家に吉村公を讃える記録が残っているそう。

宮床ではそのような名君の出身地であることを、誇りに思っているようです。

 

宮床伊達家の方は次男、村興から続いていくことになります。

 

道を戻って、寺の反対側へ行きます。

f:id:sendai-deep:20210809184821j:plain

 

法林院(宗房の正室の墓。

f:id:sendai-deep:20210809184602j:plain

え、夫人の墓はさっき見たじゃん、と思われるかもしれません。

あえてスルーしましたが、先ほどの夫人、松は継室(後妻)です。

初めに4才で婿養子に入った際の、田手高実の娘正室ですが、宗房が22才のときに、若くして亡くなっています。

本名、生年の記録も無いようで、どのような人物かわかってないようですが、宗房にとっては幼馴染であり、思い入れが強かったのではないでしょうか。

31才になってから片倉景長の娘、松を迎えています。

(※各年齢は数え年のもの)

 

話は少し変わりますが、実はこのとき宗房公と松夫人で、伊達家と、片倉小十郎片倉家が繋がっているんですね。

伊達吉村公と、宮床伊達家2代村興は、伊達家と片倉家の流れを受けています。

 

寺の敷地内には、『東日本大震災復興記念庭園』が造られていました。

f:id:sendai-deep:20210810103346j:plain

f:id:sendai-deep:20210810103509j:plain

 

いくつかの墓と仏堂のようなものがありますが、何かはわからず。

f:id:sendai-deep:20210810103553j:plain

 

最後に宝蔵で知った話を紹介します。

幕末、宮床では8代宗賢公の主導で大砲が造られ仙台藩に納めていたそう。宮床川からは砂鉄が採れたため、精錬して砲身にしていたようです。

そういった因果か、戊辰戦争時、覚照寺に「額兵隊」という西洋式軍隊が集結していたよう。仙台藩の精鋭部隊だったようですが、実戦の機会なく藩が降伏、覚照寺にて不穏な動きを見せるも、説得されて函館の旧幕府軍のもとへ渡ったとのこと。

もともと砦の様相を見せる覚照寺ですが、大砲などの兵器が揃えば、さながら要塞のようであったかもしれません。

額兵隊の存在自体、初めて知ったので興味深い話でした。

 

 

さて、今回の宮床はこんなところです。

城跡などまだ行けていない場所もあるので、また追加していきます。

仙台藩一門第二席、亘理伊達家についてはこちら、