もとじろうです。
岩ケ崎の付近には、伊達家の他にも興味深い歴史が残ります。
天下人豊臣秀吉に、最後に立ち向かい「九戸政実の乱」を起こした九戸政實にまつわる史跡がありました。
九戸政實首級清めの池
岩ケ崎中心街から国道457号を下った稲屋敷という土地に、九戸政實首級清めの池があります。
処刑した頭部を洗ったという池ですね。。。
車が行きかう国道脇に、そんなおっかないものがあります。
標識にもあるように、九戸政實(くのへまさざね)は岩手県福岡の城主でした。
では、なぜそんなことになってしまったのか、説明を見ていきます。
九戸城(現二戸市福岡城)城主左近将監政實は、南部藩随一の豪者と呼ばれた勇将であった。
南部家(盛岡)は、第二十六代の後継者選定について二派に分かれて紛争あり、後継者は田子九郎信直に決定したが、九戸政實との反目が深刻化した。
ことの発端は、南部氏の後継者争いでした。
二派に分かれたとありますが、候補のうち一人は田子九郎信直(のちの南部信直)、もう一人が九戸政實の弟だったんですね。
しかし、結局は重臣者会議で信直に決まります。
不服とした政實が対立しますが、信直は豊臣秀吉の後ろ盾を得ることに成功。
反逆した政實は、秀吉配下の大軍と戦う展開に…。
総大将は三好中納言秀次、討手の大将蒲生氏郷・堀尾吉晴・浅野長政・井伊直政等指揮する六万五千の兵力、迎え撃つは手兵僅かに五千
無謀です。無謀すぎます。相手側のメンツが強すぎる。
ちなみに、『九戸城戦闘要図』が九ノ戸神社に奉納されています。
政實は籠城作戦に出ますが、最後は蒲生氏郷の謀略によって敗北を喫します。
この謀略、どのようなものだったかと言うと、
九戸氏の菩提寺の和尚を使者に、政實の武勲を称え、婦子女や下級武士の助命を条件に和議を勧告、政實はこれを呑み開門しますが、悉く撫で斬りにされあえなく落城
(二戸市HPより・一部略)
めちゃくちゃにせこい…。菩提寺の和尚を使うあたりが悪質すぎます。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代ですからね。勝てれば何でもありなのでしょう。
しかし、こういった手を使わざるをえない程、九戸政實に苦戦したということでもあります。
さて、長くなりましたがここまでは岩手での話です。
岩ケ崎に来るのはここから。
政實一行は囚人用の竹籠に乗せられ、天正19年9月8日出発し、9月17日三迫の上品寺(栗駒町上野、現在は廃寺)に宿泊、秀次に報告の後、9月20日にこの地で斬首され、この泉で首級を洗い、遺骸を埋めた所に塚を立てた。
なぜこの土地だったのかはわかりませんが、京都へ戻る道中、処刑が決したということでしょうか。
ともかく政實の首は冒頭の池で洗われ、遺骸を埋めた塚はのちに九ノ戸神社になったということ。
九ノ戸神社
神社は池のすぐ近くにあります。
明治初年頃、遠田郡のとある行者が、夢の中で九戸政實に「塚を探し出して供養してほしい」と託され、荒れ果てた草むらから塚を見つけ出し、この神社を建てたそう。
九戸政實の姿が描かれた絵馬などが奉納されていました。
ちなみに「遺骸を埋めた」とありましたが、政實の首は京都の秀吉のもとへ運ばれたとされている一方で、家臣が岩手県の九戸村へこっそり持ち去ったという話もあるそう。
こちら、稲屋敷の九ノ戸神社に埋まるのは、首以外というとこですね。
九ノ戸神社から数十m下ったところ、大鳥中集会所の敷地にも神社があります。
こちらは大きな鳥居が目立っていました。
『機関紙 九戸城 第4号』(昭和62年 二戸商工会青年部発行)によると、先の九ノ戸神社は、
通行量も多くおちおち参詣できない状態にありました。栗駒町側では「すぐ近くに九ノ戸神社を移したいと言うことでスペースは確保しているが財政等の都合もあり容易ではない、そこで二戸市民の協力が得られれば…」
とありますので、その後二戸市の協力のもと、ここへ移されたのでしょう。
『九戸城主左近将監政實 主従慰霊之碑』
処刑された政實らを哀れんだ村人が墓標として椿を植えたそうで、その椿をここへ移植したとのこと。
敷地内には石碑も多く並んでいました。家臣らのものでしょうか。
こちらがその椿。
岩手の九戸村にも九戸政實の神社があると書きましたが、地元の方々にとても敬われていることがわかります。
「九戸政実の乱」の制圧によって秀吉の全国統一が完了したとされており、政實は秀吉に最後に立ち向かった者と位置付けられています。
謀略にはまった最期というのも、東北の人の政實に対する思いを高めているのでしょう。
上記では一連の流れをかなり省略して書いていますが、詳細を見ていくと南部信直の立ち回りのうまさや、政實の人物像が見えてきて面白いです。
おまけ(上品寺はいずこ)
さて、ここからは蛇足ですが、個人的には処刑の前に一行が宿泊したという上品寺(じょうぼんじ?)が、どこにあったのか気になります。
いろいろ調べましたが、情報が分かれており
➀岩ケ崎高校の敷地もしくは付近とするもの
➁現栗原寺がかつて上品寺だったとするもの
と、主に2通りあります。
エフエム岩手のブログ『政実くのへFM』では、現地の方に「愛宕山・旧上品寺跡地」と案内されているようです。
愛宕山は、愛宕地蔵尊法蔵寺がある小高い丘のことだと思いますが、これは先の慰霊碑にある
政実主従八名を捕え三迫上品寺まで連行寺の東南の丘に於て処刑
の記述とも合致します。
僕自身付近を探索した際、この愛宕山の山頂部に墓がいくつかあるのが見え、ここを疑っていました。(私有地であることが明らかだったため、路上から確認するのみ)
しかし、県教育委員会の調査報告書『栗原寺跡』では、現在の栗原寺(りつげんじ)がかつての上品寺だったと記されています。(昭和59年、寺号を変更)
ただ、この栗原寺は、九ノ戸神社から東南へ数キロと少し離れた位置にあります。他の記述とは合致しません。
かなり頭を悩ませたのですが、九戸政實の時代は愛宕山にあり、その後昭和頃までに、現栗原寺へ移っていたという理解をしています。
もし情報に誤りがあればご指摘をお願いしたいと思います。
ちなみに、県発行の遺跡地図では、愛宕山は『中の森遺跡』としていますね。何の遺跡かはわかりませんが。
さて、かなり長くなりましたが、今回はこのへんで…。
岩ケ崎および栗駒編はここで一区切りです。
伊達家分家に関連する史跡はこちら、