【会津若松】白に染まる冬の『鶴ヶ城』を訪れる
こんにちは、もとじろうです。
修学旅行以来の会津旅行、今回は会津のシンボル、鶴ヶ城(若松城)へ行きました。
写真は夕日に照る鶴ヶ城
鶴ヶ城というと、戊辰戦争の舞台になったことで知られていると思います。
城主松平容保のもと、約一ヶ月の籠城戦を戦いました。
もちろん現在の姿は再建されたものですが、そんな鶴ヶ城の内や外を見ていきます。
鶴ヶ城(若松城)
城への入り口はいくつかありますが、ここはやはり正面から行きたいもの。
北出丸大通りから写真奥の入り口へ進んでいきます。
まずは城を囲むお堀の様子。北国の城らしく凍ってます。
こちらもお堀。平場ではありません。
ここまでくると氷を渡って攻め入られるのでは。
立派な桝形の石垣。
正面からの道は簡単に攻め入られないよう、何度か屈折しています。
この桝形では三方から攻撃可能だそう。
少し開けた場に出ます。ここは北出丸。
城の中心から張り出すように造られた区画で、お堀に浮かぶ島のような場です。
こちらが大手門(太鼓門)。
かつては直径約1.8mの大太鼓が備えられ、藩主の登城や非常事態に鳴らされたそうです。
また、多聞櫓と呼ばれる櫓も建っていたとあります。
左の石垣の上に建物が見えているのですが、そちらは稲荷神社。
とうとう天守閣が姿を現します。
雪降りしきる鶴の城。
石垣まで白くなることで、美しさが際立っていますね。
こちらは本丸埋門(ほんまるうずみもん)。ここを通って天守閣へ進みます。
とても城らしい城ですね。入場料を払って内部へ。
中は郷土資料館にもなっており、掛け軸や屏風などの展示品があります。
こちらは撮影可能な階の様子。鶴ヶ城ひいては会津の歴史を学べます。
奥に白虎隊の肖像画が見えています。
城内に肖像画があるのは幼い頃の記憶にもありましたが、新しいものに代わっていますね。
昔は白黒で一枚一枚別だった気がします。違ったらすみません。
最上階へ上がって来ました。(実際は何時間もかけてます)
とても見晴らしが良いです。こちらは西側の様子。
北側。北出丸大通りが見えています。
東は山が並びます。2つの山の谷になっているところが東山温泉地域のようです。
南は長屋が延びています。南走長屋と呼ぶそう。
この屈折具合がいいですね。
上から見た本丸の様子。
かつてはこのスペースにも様々な建築が並んだそう。
お殿様も普段住んでいたのは下の屋敷で、最上階は物置と化していたとか…。
雪も良いですが、夕日を浴びる様も良いですね。
小学生のときもここへ来たのが懐かしいです。
ところで鶴ヶ城というと松平容保のイメージでしたが、実は伊達や上杉など様々な領主が移り変わっていたのですね。
南北朝時代、芦名直盛が東黒川館(黒川城とも)を建てたのが始まり。
芦名家を破った伊達政宗が一時入り、その後、秀吉の命で蒲生氏郷が領主に。
この氏郷が、城下町を「若松」と改め整備、鶴ヶ城の名付け親でもあるそう。
さらには今より高い七層の天守閣を築いたのだとか。
その後は上杉景勝が会津入り、再び蒲生家、加藤家、保科家(→松平家)という変遷を辿っているそう。
加藤家の時代に、天守閣を五層へ改築、西出丸・北出丸の整備など、現在に残る形の土台を築いたよう。
それにしても名だたる名将たちが会津領主となっていたのですね。
また、氏郷の築いた七層の天守閣、想像図が検索できますが迫力すごすぎてヤバいです笑
時代は明治に至り、鶴ヶ城は戦火にさらされることになります。
上の写真は、時刻を告げるための鐘撞堂(かねつきどう)。
戊辰の役(1868年)では、ここに新政府軍の砲火が集中し、時守が相ついで斃(たお)れたが、開城の間際まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞した。
天守閣も砲撃の対象になります。
城内には崩れかかった写真が展示されていますが、なんとも痛ましい姿でした。
土井晩翠作詞の『荒城の月』は、このときの鶴ヶ城をもとにしているそう。
「えっ、あれは仙台城じゃ…」と思う仙台人は多いと思います。僕もそうでした。
実際には、両方の城を掛け合わせているようです。
崩れかかった鶴ヶ城を見ると、そこから『荒城の月』が生まれたことも頷けます。
さて、敷地内には他にも見どころはあるのですが、次は城の周辺を見ていきます。
白虎隊士の墓はこちら、