もとじろう旅ブログ

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【会津若松】飯盛山『白虎隊士十九士の墓』

もとじろうです。

 

会津若松の旅、3日目は修学旅行でも訪れた飯盛山へ行ってきました。

約20年ぶりだったのですが、変わらない風景に懐かしい思いがしましたね。

 

飯盛山(いいもりやま)は、戊辰戦争時に白虎隊という主に16、17歳の少年で組まれた隊が自刃した場所として知られています。

仙台の小学生たちは大体、鶴ヶ城とこの飯盛山を訪れると思います。

 

飯盛山

会津若松駅から周回バスのあかべえに乗って来ました。

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写真は飯盛山とあかべえ。白虎隊の墓は、山の中腹にあります。

 

こちらが入口。常夜灯のあいだを入っていきます。

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うおおお、雪やばい!!

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ここを行くのか…。と、一瞬ひるんでしまいました。

 

それと小学生のとき、一番手前左の店でお土産を買った覚えがあるのですが、冬季休業中でした。

また来たいと思っていたので、二重でショックを受けることに。

考えてみたらそりゃそうなんですけどね。(※開いてる店もいくつかあります)

 

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階段がもはや階段ではないところを登っていきます。

 

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地元の人が走って何回も登っててすごい。

 

やっとの思いで登って来ました。

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右に見えているスロープコンベアがあるのですが、こちらも冬期は稼働停止でした。

ただお金とるみたいです。

 

ここから会津の町が見渡せます。

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白虎隊士十九士の墓

心穏やかにして墓所へと入っていきます。

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この風景を見た時、幼い頃の記憶と合致するものがありました。

ただ、修学旅行はこんな雪のシーズンではなかったので、そこは全然違いますね。

 

白虎隊の墓は左手の方。

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しんと静まった空間。ですが、市街地が近いので割と車の音も聞こえています。

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アイスクリームのようになってしまった狛犬

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奥に19基のお墓が並んでいます。

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ここ、飯盛山で自刃したのは白虎隊士中二番隊の16、17歳の少年ら。

写真では墓碑に雪がかかっていますが、一基一基に少年らの名が刻まれているよう。

整然と並ぶ墓碑を前にすると身の引き締まる思いがします。

 

戊辰戦争時、二本松藩を破った新政府軍会津へ攻め入ってきます。

猪苗代湖畔の戸ノ口での合戦から退却し、飯盛山へ辿り着いた白虎隊。

彼らはここで城下町が燃える様を目にし、激論の末に自刃を決意することになります。

 

ちなみに、ここに来るまで僕も間違っていたのですが、白虎隊は総勢では300を越す隊で、そのうちの士中二番隊、うち飯盛山に辿り付いた一部の隊士が自刃したということだそう。

人数についても後を追った隊士が足されているなど、諸説あるようですね。

 

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吉田伊惣次氏篤志の碑

飯盛山で自刃した白虎隊士の遺骸は、戊辰戦争が終わってもしばらく風雨にさらされたままでした。近くの牛ヶ墓村の肝煎(世話人)吉田伊惣次はこの惨状を見て、村人らと密かに飯盛山と近くの妙国寺に仮埋葬しましたが、西軍のとがめを受け獄舎に繋がれました。

白虎隊士が自刃してから会津が降伏するまで一ヶ月かかっています。

少なくともそれまでは野ざらしになっていたのでしょう。

夏のことであるので腐食も激しかっただろうと想像します。

遺骸に手を付けることは西軍が許さなかったそう。

吉田伊惣次氏はその後、許されて釈放されたとあります。

 

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会津藩殉難烈婦の碑

会津戦争では未成年の少年だけでなく、婦女子も戦争に加わっています。

自刃または戦死した婦女子230余名のための慰霊碑。

 

こちらは、白虎隊精神に感銘を受けたというローマ市寄贈の碑

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上に大鷲の像が載っています。(写真がヘタすぎてよくわかりませんが…)

この記念碑のことは記憶にもありました。鷲の姿が印象的だったのかもしれません。

 

ドイツ大使館書記官エッツドルフ氏寄贈の碑もあります。

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奥の方へ場所を移動していきます。

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岐阜の郡上藩から駆け付けた凌霜隊(りょうそうたい)の碑があります。

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彼らは会津藩士とともに籠城戦を戦うも、戦後は獄舎へ入れられるなど過酷な運命を辿ったそう。

 

こちらは、飯盛山で自刃した隊士で唯一生き残った飯沼貞吉の墓。

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飯沼貞吉は他の隊士同様、喉に刀を突き刺すも、絶命には至らず、通りがかった婦人ハツによって救命されます。

飯盛山での白虎隊の出来事は、後年、彼によって語られることになります。

戦後は電信技士となり、仙台で生涯を閉じるまで会津へは戻らなかったそう。

そのため仙台の輪王寺にもお墓があるようです。

僕もよく知るお寺ですが、このことは知りませんでした…。

 

さらに進むと開けた場所に出ます。

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階段を降りたところが、白虎隊自刃の地とされています。

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雪がこんもりとしていますが、遠く鶴ヶ城を見る白虎隊士の像が建っています。

 

彼が望み見るのはこういった風景。

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薄っすらですが、奥に木が多くあるところが鶴ヶ城の敷地です。

火が上がる城下町の様子を見た少年らの気持ちが、いかなるものだったかと想像します。

 

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戸ノ口洞門をくぐってこの地へ敗走してきた士中二番隊。

炎上する城下を目にし、「誤って捕えられては主君に対しても、祖先に対しても申し訳ない」と自刃を決意。そこには「武士の本文を明らかにすべき」との思いがあったよう。

年若くとも、最後まで武士であろうとした少年らの姿がここにあると知ります。

背筋を正される思いをしつつ、飯盛山を後にします。

 

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近くの白虎隊記念館にも寄りました。

ここでは士中二番隊が自刃に至るまでの過程や、婦女子の隊について詳しく知ることができます。

 

飯盛山にはさざえ堂など、他にも観光場所があります。

白虎隊がくぐってきたという戸ノ口洞門(洞穴)も近くにあります。

白虎隊士が守ろうとした鶴ヶ城はこちら、