もとじろうです。
鶴ヶ城の近くには、幕末の歴史を伝える場所がいくつかあります。
会津戊辰戦争終結の地
城の前に延びる北出丸大通り(甲賀町通り)に来ました。
しかし、とうとう降伏を余儀なくされ、この通りにて降伏式が行われたといいます。
明治元年(一八六八年)九月二十二日午前十時、
会津藩は鶴ヶ城の北出丸に「降参」と大きく書かれた白旗を掲げました。そして正午に、追手門に通じるここ甲賀町通りの路上で降伏式が行われました。
地面に緋毛氈(ひもうせん)という赤い敷物を敷き、松平容保・喜徳父子がその上に立って式を執り行ったとあります。
会津藩士らはその緋毛氈を切り分け、この日の無念を忘れぬようにと持ち帰ったそう。
最後に『八重の桜』の主人公、山本八重が開城前夜に詠んだ句が載っています。
明日よりは いづくの誰か ながむらん なれし御城に残す月影
他の者の手に城が渡り、去って行かねばならないことの無念を詠っていますね。
それもこの句を、城壁にかんざしで彫ったのだとか。
会津の戦争はここで終わりになりますが、戦いの火の手はさらに北上していくことになります。
裏手がちょっとした庭園になっています。
旧会津藩家老内藤介右衛門の屋敷跡だそう。
江戸時代遠州流の由緒ある名園だと紹介されています。(現在は裁判所の敷地のよう)
このときは雪がどっさりだったので、春になってからが良さそうですね。
西郷頼母邸跡
道路を挟んで反対側には西郷頼母邸跡があります。
西郷頼母(さいごうたのも)は、会津藩の家老で『八重の桜』では西田敏行が演じていますね。
容保公が幕府から京都守護職に任命された際、会津に火の手が及ぶからと職の辞退を進言します。
結果、頼母は蟄居を命じられ、会津は懸念した通りの運命を辿っていくことになります。
個人的には、ドラマを観て特に好きになった人物の一人ですね。
しかし、その頼母邸でなんとも痛ましいことが起こります。
戊辰八月二十三日朝、西軍が鶴ヶ城下に侵入し急を告げる早鐘が打ち鳴らされると会津藩士・家族達は籠城戦に備えて競って入城を急いだ。
西郷邸では、頼母の留守を預かる妻・千恵子が長男吉十郎を城に送り出した後、一族を集め、幼い者や子女は足手まといになり、恥辱を受ければ家名の恥になると説き聞かせ、母・律子(五十八才)をはじめ、季子(二才)まで二十一人そろって辞世の和歌を詠み自刃した。
なぜそうまでしなければならなかったのか、と思ってしまいますが、それが武士の一家というものなのでしょうか。
ただ、こういう時代、それもそれほど遠くない時代が、実際にあったと知ることの必要を感じます。
敷地内の石碑。妻・千恵子の句が紹介されています。
なよ竹の 風にまかする身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ
妻という立場でも、武士の家族としての強い信念を感じます。
実際の二十一人の墓は、城の南西、善龍寺にあるよう。
鶴ヶ城會舘
さて、話はまったく変わりますが、城の敷地内「鶴ヶ城會舘」で昼食をとりました。
ここは桜ヶ馬場蹟という馬の練習場だったそう。
戦後、この場で人員調べがあった際、山本八重が男装して検査を通過したエピソードが紹介されています。
お食事処・二の丸にて昼食。
会津における最強の組み合わせ、喜多方ラーメンとソースカツ丼のセット。
めちゃうまでした。
ところで上の写真で蒲生氏郷の赤い幟が立っていますが、町中のいたるところに立っているんですよね。
これまで容保のイメージが強かったですが、氏郷は会津若松の生みの親であるので、町として推していきたいのも当然かもしれませんね。
バルタン星人みたいな甲冑は好みが分かれるみたいですが、個人的にはすごくかっこいいと思ってます。
城の周辺には他にも見どころがあります。
北出丸大通り(甲賀町通り)には、大手門がありました。