【会津若松】山本覚馬・八重 兄妹の生誕地ほか『日新館』跡地
鶴ヶ城の西の地域に、大河ドラマ『八重の桜』の主人公、山本覚馬・八重兄妹の生誕地があります。
他、兄の覚馬が教授を務めた藩校、日新館の跡地を見ていきます。
山本覚馬・新島八重 生誕の地
城の西を縦に走る大通りから、小道へと入っていきます。(城の南西)
100mほど進むと、
石碑が建っています。
ただ、説明を読む限り、ここはあくまで記念碑を建てた場所であるよう。
実際の山本家跡地はもう少し先です。
駐車場になっている敷地に、説明文が立っていました。
会津藩士山本覚馬(やまもとかくま)は、砲術師範で日新館(にっしんかん)という藩校の教授でした。
妹の八重(やえ)も、砲術一家に育つ中で鉄砲について学び、籠城戦では銃を手に活躍する姿が描かれています。
のちに新島襄(にいじまじょう)と結婚し、兄の覚馬とともに同志社設立に力を注いでいます。
『八重の桜』でもたびたび屋敷が登場していますが、鉄砲を撃つための角場があったり、確かに広そうでしたね。
周辺の様子。このあたりは他にも会津藩士らが住む地域だったよう。
さて、覚馬が教授を務めた日新館の跡地が近くにあります。
会津藩校日新館跡
大通りに戻ってしばらく北上。城の真西のあたりに跡地はあります。
日新館は、5代藩主松平容頌の時代に造られ、日本初となるプール(水練水馬池)や天文台も備えていたそう。
のちには白虎隊もここで学んでいます。
館を設立した田中玄宰(たなかはるなか)の紹介があります。
田中家は代々会津藩の家老を務めた家柄。中でも、寛政時代、財政逼迫にあえいでいた会津藩を見事な改革案で立て直したことで有名なのが田中玄宰です。
ちなみに玄宰がいなければ会津松平家は断絶していたかもしれないそう。
それは6代容住(かたおき)が、藩主になってわずか数カ月で病死したときのこと。
7代容衆(かたひろ)が後継となるもわずか3歳のこと。
玄宰は、容衆が早世した場合に備えて水戸徳川家から極秘で養子を迎えるよう働きかけます。
そして懸念した通りに容衆は嫡子の無いまま早世。
このとき、玄宰はすでにこの世を去っていましたが、水戸徳川家からの養子が後継に就くことになります。
それが容保の養父である8代容敬(かたたか)でした。
このときの田中玄宰の働きかけが無ければ、歴史が大きく違ったかもしれませんね。
日新館跡地は広々とした空き地になっていました。
少し前まではここに社宅が建っていたみたいですね。
ちなみに復元された日新館は、市街の北に観光施設として建てられています。
天文台
近くに日新館天文台の跡地があります。場所は、市立謹教小学校東。
住宅に囲まれた土地に立派な石垣があります。
これでも当時の半分の規模だそうですが、現存する日新館唯一の遺構です。
冬至の日には、学校奉行・天文方の師範・暦家が集まり、晴雨、考暦を編した
この時代の星の観測がどのようなものであったか、気になりますね。
現在は立ち入ることはできないよう。どっちにしても雪で無理でしたが。
この隣に現在、小学校が建っていることはとても意義を感じますね。
鶴ヶ城の周辺には、他にも歴史を伝える場所があります。