もとじろうです!
鎌倉時代の石窟など遺跡が残り、岩切城主の留守氏とも関係があります。
岩切城跡へ行く前に寄りました。
東光寺
泉中央から多賀城方面へ抜ける35号線沿いにあります。
多賀城方面から来るといつも鐘が見えるので、よく通る人は知っていると思います。
実際に入ってみるとこんな感じ。
その35号線からよく見える鐘。
このあたりから境内の裏へ回る道があるので進んで行きます。
上へ道が続いています。
右に見えている標識の説明によると、
東光寺の西平場
丘陵の斜面に人為的に造りだされた平場で、鎌倉時代にこの地域を治めていた留守氏が設けたとされる二基大型板碑の周囲に、当時の地域住民が留守氏にあやかるため納めたとされる小型の板碑が多く残っている。
平場がどのあたりを指すのかよくわからなかったのですが、留守氏と東光寺に深い関係があったのがわかります。
留守氏の板碑二基も付近にあったようですが、よく確認せずに来てしまいました…。
見えました。石窟です。
木が覆いかぶさるように茂っています。
厳かな雰囲気があります。
格子が開いている時もあるようですが、この日は閉まっていました。
この付近には、鎌倉時代から室町時代頃にかけて造られたとされる四基以上の石窟が確認され、内部には穴薬師と呼ばれる薬師如来や、阿弥陀如来などの石仏が刻まれている。(標識の説明)
時代から見ると、付近の岩切城が使われていた時期と重なります。
留守氏が代々、参拝に訪れていたのではないでしょうか。
横から見た様子。
隣も石窟が並んでいます。
脇にあった石碑。
ただ、この日は夏場であることに加えて雨だったので、足元がぐちゃぐちゃしていました笑。
草木の少ない時期の方が行きやすいかもしれません。
道はさらに奥へ続いているので、進んで行きます。
墓地が広がる脇に石碑が並んでいます。
ひときわ大きいのがこちらの石碑。
元号から見ると正和六年(文保元年)で、鎌倉時代。こちらも留守氏の時代ですね。
また、こういった石碑がありました。
信田小太郎碑
気になって調べたのですが、信田小太郎は、平将門の孫のようです。
将門 将国 文国(信田小太郎)の系図
写真の説明にあるように、幸若舞の曲目のひとつ『信田』の主人公にもなっています。
物語では、常陸国を追われ、各地を転々とする中で陸奥湾に辿り着き、塩商人のもとで働いているうちに多賀国府で出自(将門の孫)が明らかになって、最後にはかたき討ちを果たすようです。
不明な点も多い人物のようですが、多賀城にも伝承が残るそうなので覚えておきます。
また、写真の説明によると、
江戸時代の文献でこの板碑が「信田小太郎古館跡碑」と説明されていたよう。
信田小太郎のお屋敷があったことを伝えるものなんですね。
さて、一度駐車場の方へ戻り、おもむろに歩くと今度はこういったものがありました。
鎌田市左衛門の墓。足軽のリーダー的立場だったようですね。
今市は、東光寺前の橋を渡った先に伸びている道沿いの町。
大正まで鎌田講を組織してお参りしていたそう。
今回の東光寺はこんなところです。
後で調べてみると、古墳時代の横穴遺構も残っているようですね。
また、境内の裏手の方に東光寺城なるものが存在していたようで、土塁などが確認できるそうです。
なんと、まったく気が付きませんでした。
見逃してしまったものが多いので、また訪れたいと思います。