こんにちは、もとじろうです。
今回は瑞巌寺を再興した雲居禅師の開山、永安寺についてです。
紅葉がとても綺麗な場所でした。
続編についてはこちら、大梅寺も紅葉が綺麗なスポットです。
永安寺
かなり奥まった場所なので、こんなところにお寺があるんだという印象でした。
由緒あるお寺という感じがします。
望楼で合ってますでしょうか。ここの造りがとても風格があります。
正面。
上の写真でも確認できますが、伊達家の三つ引きの家紋が所々にあります。
仙台の市章の基にもなっていますね。
この家紋の多さから伊達家との繋がりの深さが伺えます。
脇へ回ってみます。
廊下をちょっと覗かせてもらいました。
絵が描かれています。有名なお坊さんでしょうか。
さて、伊達家との繋がりが深そうですが、どういったお寺なのか見ていきます。
眺望がいいこの土地を見つけた伊達忠宗が、雲居(うんご)禅師を招いて開山。
江戸末期に火災に遭うまでは七堂伽藍、12棟もの建物があったとのこと。
その後、昭和になってから40年をかけ、現在の建物を建てたようです。
また、この寺は伊達家代々の非情の場所の忍び所といわれ、一族の旅の支度が備えられていたと伝えられている。
確かに外界から閉ざされたこの土地が、非常時の隠れ家として適していたのでしょう。
さて、裏手の坂を上ったところには、雲居禅師が毎日座禅を組んだ座禅堂の跡があるといいます。
せっかくなので行ってみます。
寺の脇、墓地として区画整備されているスペースを抜けて行きます。
辺りには石碑が所々にありましたが、よくわからず。
坂を上っていきます。
雲居禅師もここを毎日歩いたのでしょう。
座禅堂跡に到着。
雲居禅師の碑が建っています。
周りに石積みがありますが、これが座禅堂の基礎だったのでしょうか。
雲居禅師は、雲居希膺(うんごきよう)というお坊さんで、
伊達政宗公が存命の頃、京都ではすでに高僧として名高かったようです。
そこで政宗公は雲居禅師に瑞巌寺の住職になることをお願いします。
雲居禅師はこれを断り続けるのですが、政宗公が亡くなり、遺言を託された忠宗公が再び呼びかけると、政宗公の思いの強さを知って松島に来てくれたそうです。
上の説明では中興の祖とありますが、もとは円福寺という平安時代に始まるお寺で、戦国末期には衰退していました。
そこで政宗公が瑞巌寺と改め、雲居禅師を呼ぶことで再興を図ったようです。
そのため、瑞巌寺が現在の形として残る出発点に立ったのが雲居禅師と考えて良さそうですね。
雲居禅師はその後、永安寺の他に、青葉区の大梅寺も開山しています。
お寺の脇の墓地の一角に、歴代のご住職のお墓がありました。
上にあげた看板の説明では、明治維新の際に藩からの知行(支援のこと)を失い、寺が一時衰退するも、明治から昭和にかけて2代の住職が再興させたとあります。
そのうちの一人、大矢元康さんの伝記がお墓に書かれていました。
こういった近代の歴史を知ることも大事ですね。
寿連原渓谷
永安寺のついでに寄れるところを紹介します。
根白石方面からお寺へ向かう途中、左手に渓谷が見えます。
寿連原(じゅげんばら)渓谷
『連』を『げん』と読むのは珍しいですね。
ごつごつとした岩肌が剥き出しになっていました。
木に隠れてますが、岩の下に川が流れています。長い年月をかけて岩を削っていったのでしょう。
花輪川は、その名のとおり花輪地区を流れて七北田川に注ぐ川です。
かつて、花輪地区一帯は盛んに刀が造られ、「鋳錬原」(じゅれんぱら)とも呼ばれていました。花輪川の清い水は、鍛冶職人が刀を打つために利用され、川沿いには多くの職人が暮らしていたと言われています。(仙台市ホームページ)
川の名前は花輪川。
そしてなんと、この土地で刀が生産されていたとは。
付近の石碑。渓谷とは反対側にあります。
なんとか『山』とありますが、僕には判別できません…。半分ぐらいに折れてしまっているようですね。
奥の二基は馬頭観世音。刀鍛冶職人らが建てたのかもしれません。
渓谷のさらに手前には水神社がありました。
鳥居や社は無く、石碑が並んでいるのみです。
ここも職人らが参拝していたのでしょうか。
寿連原渓谷の道を西へ進むと、右手に永安寺の看板が見えます。
その道を入って奥まで進んだところが永安寺です。
途中、急坂があるので雨や雪の日は避けた方が良さそうでした。
雲居禅師が埋葬された蕃山・大梅寺についてはこちら、