もとじろうです。
東北の政治の要衝、多賀城の史跡を紹介していきます。
多賀城ってよく聞くけど、なんですのって言うと奈良時代以降の東北における政治の中心地でした。
当時は奈良や京都が日本の中心地でしたから、遠く離れた土地にある東北(陸奥国)に、政治の要所を設置する必要があったわけです。
九州の大宰府、東北の多賀城といった感じです。(太宰府市と多賀城市は現在、友好都市提携を結んでいる)
現在で言う仙台にあたるでしょうか。仙台と多賀城は隣接しているので、この一帯が長く東北の中心を担ってきたわけですね。
そうは言っても、東北の人達からしたら「朝廷のやってることなんか知ったこっちゃねーよ!」なわけで、征夷大将軍、坂上田村麻呂と阿弖流為の戦いになったりしました。そのときの将軍側の拠点が多賀城です。
そんな歴史ある多賀城には、現在も史跡が多く残ります。
前回の記事はこちら、
今回は、多賀城市の史跡の中でも最重要の多賀城跡についてです。
多賀城跡
さすが陸奥国における政治の重要拠点であっただけに、見晴らしの良いところにあります。
駐車場の心配は無く、東北本線の国府多賀城駅から歩いても行けます。
正面の長い階段を上ります。
この通路の長さが、格式高い場所であることを感じさせます。
上ったところから、市街方面を振り返った景色。
ここから古代の役人達は、城下の多賀郷の様子を眺めていたわけですね。
地図で見ると仙台港のあたりまで、ずっと平野が続いているのがわかります。
建物は残っていないので、ここにあるのは、前回の寺跡と同じように礎石が残るばかりです。
建物はこんな感じだったそう。
「第二期(8世紀後半)の姿」とあります。まさしく奈良・平安時代の建築といった感じですね。
その他の説明によると、多賀城の建築物は4期までの変遷を辿っており、その中でも最も荘厳だったのが、この第二期とのこと。
724年の創建当時はもう少しシンプル、その後は焼き討ちにあったり、地震を被災して建て替えていったようです。
また、第一期の創建当時は、茅葺屋根で掘っ立て式。
第二期で瓦を用い、礎石式に変わったそう。
なかでも中心だった建物が、この政庁正殿。
絵があるとイメージしやすいです。
この場所にも、平安貴族にイメージする雅な文化があったんですね。
現在はこんな感じ。
各建築の礎石が残ります。奥の土塁は築地があった囲いですかね。
上から見るとこんな感じ。
綺麗に区画されているのがわかります。
北側にあった石碑。
なんなのかはよくわからない。
正面階段の上から見た景色。
階段途中、西側に倒れている石碑群。
「なぜこんなところに倒れたまま置かれているのだろう」と不思議に思ったのですが、
津波の時に、海に近い場所にあった石碑が倒された例があるようで、そういったものが運ばれたのだと思います。
多賀城市も震災時、甚大な被害があった町です。
石碑の内容は、よくある「湯殿山」と彫られたものの他に、
「供養塔」とあるものがいくつかありました。
昔にあった災害を伝えるものだと思いますが、東日本大震災もまた伝えていくことになりそうです。
整備して、また説明を加えてくれるとありがたいですね。
他にもいろいろありますが、省きます!
ぜひ現地で確かめてみてください。
ちなみに多賀城跡は、当時の原寸大の南門の復元を進めています。
2024年に完成予定らしいので、その頃また見に来たいですね。
実際には、多賀城碑→多賀城跡→多賀城神社の順で回った方がいいです。
色麻町の窯跡についてはこちらに書いてます。