【青麻神社】~常陸坊海尊の伝承~
もとじろうです!
今回は、青麻神社についてです。
『あおあさ』ではなく、読み方は『あおそ』です。
岩切城跡から道路をさらに奥へ行ったところにあります。
青麻神社
青麻道を北上、途中の分かれ道を右に行くと、山林が続く一帯に忽然として青麻神社は現れます。
全国各地にある青麻神社の総本社だそう。
入口の赤い橋が目立っています。
緑と赤の対比が綺麗ですね。
奥へ進みます。
こちらが拝殿。
軒下に紋が並んでいますね。神紋、又は社紋と呼びます。
六芒星にも似ていますが、これは麻の葉を並べた形だそう。
その他、境内には御井神社や、山神社があります。
ひと際目立っているのがこちら、神楽を奉納する舞台のようです。
神楽、実は一度も観たことなくて、観てみたいです。
榊流青麻神楽。
奉納公演は、5/1, 5/3, 11/23とありますね。
練習参加もできるとのこと。
神社の由来
さて、神社の由来を見ていきます。
社名は青麻岩戸三光宮、青麻権現社とも。
平安時代、山城国から来た穂積保昌という人物が麻の栽培を教え、その一族が崇拝していた日、月、星の三光神を岩窟の中に祀ったのが始まりで、社名と地名は麻の栽培によるものだそう。
社名は青麻ですが、信仰の対象は三光神ということですね。
また、時代は変わって1682年、常陸坊海尊がこの地に霊験を現し、併祀したとあります。
気になったので少し調べてみましたが、
常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)は、源義経の家臣で比叡山の僧でもあったそうです。
義経が自刃に追い込まれた衣川の戦いでは、寺へ拝み出ていたため生き延びたよう。
不老不死説など、様々な伝説が残るようです。
この地に現れたのが1682年となると、500年くらい違うので時空を越えて現れたことになりますね。
昔の伝記物にたびたび登場しているようですね。
まったく知りませんでした。
神社ではその、天和二年(1682年)に常陸坊海尊が現れた言い伝えが紹介されています。
勝手ながら少しまとめさせてもらいます。
天和霊験譚
村の久作という者が、目の病で失明していたそう。
すると、ある老人が来て「丑の刻に沐浴して天を拝みなさい。そうすれば目の病は癒えるだろう」と言って立ち去った。
その後、久作は教えに従って天を拝むと、星の光が目に満ちて、辺りの草木もわかるようになってきた。
そこで久作は信心深く、拝み続けると1カ月ほどで全快した。
すると、老人がまた現れるも、今度は白髪に赤い顔という異様な風貌で、目つきも鋭かった。
「お前の目は癒えたか」と問われると、久作はひれ伏して「目は癒えました。感謝の言葉もありません。どうか、お名前とお住まいを教えてください」と答えた。
老人は「われは常陸坊海尊。下野国の大日窟に隠遁していたが、この窟に移り住もう。この窟には何の神を祀っておるか」と聞くので、
久作が「大日・不動・虚空蔵の三佛です」と答えると、
老人「それは幸い。われが祈念するのも日月星。これからこの窟を三光窟と称し、安泰を祈りなさい」と言い、窟に入られた。
その後、海尊仙は常にこのあたりの山中を遊行しており、村人の病を癒しているそう。
二度目に現れたときの姿というのは、天狗の姿だと思われます。
穂積氏の平安時代は三光神だったものが、江戸時代には三仏に変わっていたようですね。
江戸時代どころか鎌倉期には変化していたかもしれません。
神仏習合したり様々な変遷を辿っているのだろうと思います。
ちなみに、この日は雨が降っていて急いでしまったのですが、岩窟は、本殿後ろの岩壁にあって下からも見えるそうです。
次に訪れたときは確認したいです。
元茶屋の清水
神社の前の道路を渡ったところに、井戸があります。
なんでも、神社参詣者のための茶屋があったそうで、その水を復旧させたとのこと。
名水として有名なようで、滞在中にも汲みに来た方がいました。
神社は深緑の季節ということもあって、瑞々しい雰囲気を感じました。