こんにちは、もとじろうです。
しばらく会津編が続きましたが、久々の仙台編です。
今回は仙台宮城インターチェンジからも近い、郷六城跡について。
郷六氏という一族の居館で、今も土塁などの形跡が残ります。
また、時代は少し違いますが、郷六御殿という伊達家の別邸も近くにありました。
郷六城跡
青葉の森緑地の裏手に郷六(ごうろく)地域があります。
大きな幹線道路が近くを走りますが、このあたりは昔ながらの風景が所々残ります。
観音堂がありました。
奥に見えている山は権現森。
ここの道を入って城跡へ向かいます。奥に見えている山は蕃山(ばんざん)。
入口の様子。右が宇那禰(うなね)神社。左が郷六城跡。
まず城跡から見ていきます。
標識によると、国分氏の族臣郷六氏の居館で、戦国真っただ中の天正時代にここに住んでいたそう。
また、郷六氏というのは国分盛政を祖とするそうで、国分氏から分かれた一族のようですね。
親元となる国分氏は、主に宮城の中部地域で勢力を広げた一族で、宮城の歴史にたびたび登場します。
後醍醐天皇の時代なので、郷六氏がここに住むよりずっと前ですね。
道がちゃんと残っています。両脇は高く土が盛られています。
盛られた土塁の様子。
上に平場があります。今は畑として使われていました。
江戸時代の書物『仙台領古城書上』によると、広さは東西三十間(約54m)、南北四十間(約73m)と記載されいたそう。
畑に踏み入るわけにはいかないので出ます。
外側が少し掘られています。
以下は仙台市のホームページによるもの。
郷六城は平城で、国分(こくぶん)氏の族臣・郷六大膳盛元の居城であった。郷六氏は、後に伊達氏に帰属し、天正5年(1577)頃に愛子(あやし)に移り、その後に森田氏と改称している。
国分氏が伊達氏の配下になったとき、郷六氏もそれに従ったという感じでしょうか。
愛子は、郷六からほどない地域です。
宇那禰神社
続いてお隣の宇那禰神社を見ていきます。
鳥居前の石碑群。
こちらが拝殿。
宇那禰神社は郷六氏の氏神でしたが、今はここより北東の芋沢に遷座されています。
以下は、芋沢の宇那禰神社についての神社庁のページ。
永禄年中『或は、天正18年(1590)とも、慶長14年(1609)とも』まで国分郷六村(今の愛子二軒在家)国分氏の重臣郷六大膳孫九郎宗治の氏神として尊宗され、この年今の地に御遷座されたのである。
郷六氏が愛子に移ってから、十年以上は経て遷座されているよう。
宗治は盛元の後の人物でしょうか。
約400年前には遷座したことになりますが、現在まで神社として残ったんですね。
写真だとわかりづらいのですが、手前にどんと祭を行った跡がありました。
小さい松川だるまも置かれています。
遷座した後も、地元の方々がずっと守ってきたことがわかります。
ちなみに、ここにあった説明によると、神社前の石碑群は、付近の大梅寺参道にあったものを道路工事の際に移してきたものだそう。
こちらは拝殿脇の石碑群。
外に出て、神社と城跡の間の道路を歩きます。
右が城跡。左が鎮守の森です。
仙台市のHPでは郷六城について、「生出(おいで)街道沿いに位置する」とも書いてあったのですが、この道のことでしょうか。
調べると最上古街道との情報も出てきますね。
郷六御殿跡
続いて仙台藩4代藩主伊達綱村が建てた別邸、郷六御殿の跡地へ向かいます。
城から南東へほどない距離です。
城跡から歩いて行きます。
何気ないけど、いい風景。
来ました。白い標識が建っているあたり。
現在は一般のご住宅が建つ場所なので、正面からの撮影はしませんでした。
井戸がありますが、こちらは当時から使われていたものだそう。
以下は標識の説明文。
郷六御殿は四代藩主伊達綱村が、貞亭四年(1687)に郷六の地が地の利を得た佳境であることに着目し藩士上野市郎兵衛らに命じて、仙台西郊にあたる景勝の平地を開いて別邸として造営したものである。
仙台城から、背後の青葉山を抜けてここへ来ていたのだと思われます。
敷地のすぐ隣を広瀬川が流れています。
左手が御殿のあった敷地。
綱村公もこういった川や山の景色を眺めていたのでしょう。
大きな堰があります。
何気なく撮った写真だったのですが、ここ(対岸側)から四ツ谷用水の水を取水しているよう。
四ツ谷用水は伊達政宗が整備した、仙台城下を流れる大規模な用水路です。
御殿のあったこのあたりには「屋敷」の地名が残っています。
バイパスや高速、北環状線など大きい幹線が交わる地域ですが、こうした歴史が残っていることに新鮮な驚きがありました。
郷六から近い大梅寺に、郷六御殿の一部が残されています。
この回では蕃山にも登ります。
郷六御殿跡の対岸には葛岡城跡があります。