もとじろうです。
東北の政治の要衝、多賀城の史跡を紹介していきます。
多賀城ってよく聞くけど、なんですのって言うと奈良時代以降の東北における政治の中心地でした。
当時は奈良や京都が日本の中心地でしたから、遠く離れた土地にある東北(陸奥国)に、政治の要所を設置する必要があったわけです。
九州の大宰府、東北の多賀城といった感じです。(太宰府市と多賀城市は現在、友好都市提携を結んでいる)
現在で言う仙台にあたるでしょうか。仙台と多賀城は隣接しているので、この一帯が長く東北の中心を担ってきたわけですね。
そうは言っても、東北の人達からしたら「朝廷のやってることなんか知ったこっちゃねーよ!」なわけで、征夷大将軍、坂上田村麻呂と阿弖流為の戦いになったりしました。そのときの将軍側の拠点が多賀城です。
そんな歴史ある多賀城には、現在も史跡が多く残ります。
特別史跡 多賀城跡附寺跡(多賀城廃寺跡)
まずは多賀城跡 から南東約1kmの丘の上にある、多賀城跡附寺跡(たがじょうあとつけたりてらあと)です。
「附」の一字で「つけたり」と読み、多賀城と同時期に建てられた付属寺院だったとのこと。
要するにすごく大事な寺の跡です。
このように、現在は公園として整備されており、この日も家族連れの方がボール遊びしていました。
史跡が公園として整備されたのは、ここが全国で2番目、東日本で初の試みだったそうです。
そんなちょっとした歴史もある公園なんですね。
狭いですが、駐車場もあります。
説明書きを見ていきます。
調査の結果、塔・金堂・講堂・中門・大房・小子房・鐘楼・経楼・東倉・西倉などの建物が判明しており、創建当時からまさに七堂伽藍をそなえた本格的な古代寺院であったと思われる。
七堂伽藍(しちどうがらん)は、七つの堂のそろった大きな寺を言うもので、確かに塔と楼を除くと七つありますね。
これらの建物の配置が、大宰府付属の観世音寺(かんぜおんじ)と共通しているらしいです。こういったところからも、当時の大宰府との関わりが見えてくるんですね。
さっそく中を見て行きます。
建物が建っていた様子がなんとなくわかりますね。
礎石がいくつも残っています。
ひときわ小高い盛り土になっていたのがこれ。
「塔跡」と書かれていました。
塔の礎石。
どれくらいの高さだったんですかね。
見た目はどうだったとか、気になります。
それぞれの建物の礎石は残っていて、一つ一つ写真には撮ったのですが、どれも同じような写真になってしまうので省きます笑
より詳しい説明書きもあります。
長くなるので省略しますが、古代の文献には、寺に関する記述が残っていないそうで、大正になってから多賀城の付属寺院であるとみなしたとのこと。なんだ。
と言っても、創建時期から考えれば深い関わりがあったのは間違いないでしょうね。
多賀神社
寺跡のすぐ北隣には多賀神社があります。
こんな感じ。
ちなみに多賀神社は二カ所あるようで、こちらは高崎の多賀神社。
さらに多賀城神社(次々回記事参照)もあるので紛らわしいです…。
祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)
多賀郷が築かれていた当時、国司や開拓移民が信仰していた滋賀県の多賀神社がもととなっているそう。
こちらは奈良時代の文献にも記録が残っていたけど、多賀城の繁栄が途絶えるのに伴って、所在もわからなくなってしまったとのこと。
その後、明治になって村社を決める際にめでたく選ばれたということですね。
そして昭和四十年、先述した史跡公園の施工に伴って、寺跡の神殿などを移転して現在地に安鎮。
神殿がどんなものだったのか気になりますね。
また、軍事拠点であった多賀城の繁栄が途絶えたことが書かれています。
これは寺跡の説明書きにもありますが、多賀城の軍事面の機能が岩手の胆沢城に移されたためのようですね。
石碑。
下の写真はよくわからなかった…。
寺跡のある丘を下って行く道中に石碑群があります。
はい、こんなところで次回は多賀城跡を紹介します。