こんにちは、もとじろうです。
今回は、仙台市でも古い町並みを残す根白石(ねのしろいし)について紹介します。
仙台の中心街から見て北西部。泉ヶ岳などの山岳地帯に差し掛かる麓に根白石はあります。
上は根白石から泉ヶ岳を見た写真。
泉ヶ岳は仙台の小学生が野外活動で登るなど、市民に親しまれる山です。僕も5年生のときに登って、みんなでカレーを作った思い出があります。
また、根白石は定義山(じょうぎさん)へ参拝する人らが通った町でもありました。
西方寺(定義如来)への参拝客らが、山へ登る前に泊まったのが根白石でした。
宿場町として数えられているわけではないのですが、実際にはその役割を持った町です。
写真は仙台でも人気の観光地、定義山。
サンドイッチマンの歌にもある油揚げが名物。
根白石の村名由来
根白石の入り口にあたる位置に、村名の由来になった石が紹介されています。(上にある写真を撮った場所)
源頼朝公が七ツ森で巻狩りのとき、白い大鹿が現れ、家来がここまで追って川向かいから矢を射ち、川を越え近づいたら大鹿ではなく「根の白い石」であった。
公は、見事な大石よと、腰をかけて巻狩りの手柄をしらべ、賞としたとき、この村を根白石村と呼ばせた。これを見た村人たちはここを判在家と呼んだという。
根白石の名付け親は頼朝公だったんですね。
東方遠征の最中、この土地に寄って狩りをしたそう。
七ツ森は根白石の北に並ぶ七つの山のことです。近いとは言っても数キロはあるので、それだけ家来が追ってきたことになります。
ちなみにこの家来というのは畠山重忠と和田義盛とされているそう。
村人たちが呼んだ判在家の地名も、この石のある場所に残っています。
また、大石は洪水で消失するも、村民らがその位置に石神を祀って後世に伝えてきたそう。
上の写真にもある現在の大石は平成十年に設置されたもの。
こちらの説明では、石神は享保十三年の設置とあるので、江戸時代半ばまで頼朝公の大石があったのかもしれません。
正確な発祥地は、裏手に流れる七北田川の右岸であると書かれています。
根白石 町歩き
さて、村名由来の石から進んで行くと商店が並び始めます。奥の突き当りには高長商店があります。
通りにある酒屋さん。
向いには八百屋、魚屋が並びます。
ちなみに商店が並ぶこの通り、明治の頃は中央に水路が流れていたそう。
突き当りの高長商店前を右折し、さらに道なりに進んで行きます。
次の通りでも突き当りに出ます。
こちらの通りは、商店街とはまた違った風景が残ります。
T字路、カーブミラー、政治家ポスター。全部がこの風景に必要。
来た道を振り返った様子。
T字路を左に折れてから振り返った写真。
奥へ進んだところには、白石城跡や川沿いの桜の名所があります。
ちなみに根白石の白石城は、片倉小十郎で有名な白石市の城とは別物です。
また、歩いてみるとわかりますが、根白石の通りはかぎ型に曲がっています。
これは火事の延焼を防ぐためだったそうですが、城があったことも関係しているかもしれませんね。
別角度。
弘安の碑
さて、先ほどのT字路を左折した道を進んで行きます。ここでも奥に泉ヶ岳が見えています。
ここには『弘安の碑(こうあんのひ)』という石碑があります。
左へ折れたところ、田園風景の中にポツンと。
泉区内最古の石碑である。額面には梵字のばく、釈迦如来を刻んでいる。このような石碑は板碑(いたび)ともいわれ、亡くなった人の追善供養(ついぜんくよう)のため建てられたものと考えられている。
どういった人物のための供養だったかは、わかっていないようです。
石碑が建ったのは2度目の蒙古襲来があった頃の時代。この石碑と元寇の関連はないと思いますが、供養の対象がどのような人物であったのか、探ってみるのもおもしろいかもしれません。
その他、子供が百日咳にかかった際、願掛けをする風習があったことが書かれています。
似たような風習は松森のせきひき神様にもありました。
いずれも供養碑だったものが、後にちょっとした信仰の対象になっていたんですね。
弘安の碑の方は、「縛り地蔵」とも「セキシャブキの神様」とも呼ばれたそう。
松森、国道4号線沿いの「せきひき神様」
先にも紹介したように、根白石は定義山への参拝客が通った町で、周辺には定義道が延びていました。定義道には今も、道しるべの石碑がいくつも残っています。
下の記事で定義道のひとつを紹介しています。
根白石の第二弾はこちら。