もとじろうです。
今回は、前回の岩切城跡と関係の深い、松森城跡を紹介します。
松森城は国分氏を城主とし、隣の岩切城の留守氏と何度となく戦を交えています。
宮城で国分と言えば、仙台中心にある飲み屋街が有名ですね。
国分町の名前は、もとはこの国分氏に由来するようです。
岩切城跡についてはこちら、
松森城跡
鶴ヶ城とも呼ばれた松森城跡は、現在は鶴ヶ城公園として整備されています。
岩切城跡から西へ直線距離で、1.5kmほどでしょうか。
ただ、こちらは住宅街に囲まれた位置にあります。
入口へ至る道がわかりづらいので、事前にストリートビューで確認した方がいいと思います。
駐車場は10台以上のスペースがあります。
駐車場から階段を上っていきます。
分かれ道。ひとまず、右へ進みます。
平場。二の丸が建っていたそう。
先端あたり。起伏があるのがわかると思います。
先ほどの分かれ道を、今度は左、上の段へと登ります。
とても景色が良い。岩切城跡と比べると、かなり見晴らしがいいです。
清掃工場の煙突が目立っています。その奥は鶴ケ谷団地。
左手奥は、小鶴新田や田子方面。
手前には先ほどの、下の段の平場が見えています。
左手に隣の山が見えていますが、岩切城跡のある高森山はさらに向こうのよう。
平場。こちらが本丸跡。
付近の岩切城跡と松森城跡を見てきましたが、景観としては松森城跡の方がいいかなと思います。
ただ、岩切城は歴史も古く、二つの城は深く関係しているので、合わせて訪れることをお勧めします。
松森城と国分氏の歴史
ここで松森城の歴史を見ていきます。
鶴翼の形から鶴ヶ城とも呼ばれています。
隣の岩切城は鴻の館。
どちらも鳥に例えられていますね。
戦国時代に国分盛顯(こくぶんもりあき)がこの地に移り住み、最後の城主17代国分盛重(こくぶんもりしげ)が天正の頃まで居住しました。盛重は伊達15代晴宗の五男で政宗の叔父にあたり、慶長元(1596)年に没落しました。
国分盛顯(もりあき)が移り住み、次の代の国分盛重(もりしげ)が最後の城主。
入城からわずか2代で没落のようですね。
この盛重は、伊達政宗の父伊達輝宗の弟で、政宗の叔父にあたります。
「慶長元年に没落」とありますが、これは国分盛重が伊達家から出奔したためです。
その後は、仙台藩の正月行事に使われたとのこと。
他に詳しい国分氏の説明があります。
国分氏は、南北朝時代の資料に初めて登場。
陸奥国分寺を中心とする国分寺郷(若林区木ノ下付近)を領土としていました。
系譜については別々の記載があって、どこの家から派生した一族なのか、はっきりとはわかっていないようですね。
国分氏と留守氏の戦い
南北朝時代の岩切城合戦で、国分氏は優勢であった奥州管領吉良家貞に味方してます。
敗れた岩切城主畠山国氏は切腹。侍100余人がそれに続いて落城。
畠山方に付いていた留守氏も、所領を没収されます。
吉良・国分勢が勝ち、畠山・留守勢が敗れます。
また、戦国時代に伊達稙宗・晴宗父子の争った天文の大乱では、
国分氏が稙宗方に、留守氏が晴宗方に付いて、戦いは晴宗方の勝利に終わる。
今度は国分氏が敗北、留守氏が勝利したわけですね。
このように、国分氏と留守氏は何度も戦を交えたよう。
国分氏の滅亡
国分盛氏(もりうじ)の死去に伴い、伊達晴宗の五男政重(のちの盛重)が国分氏に入れられます。
これは国分家中から強い反発がある中での強行だったそう。
のちに国分盛重として宮城郡を支配するも、反対派であった堀江長門守を先頭に反乱が起き、伊達政宗も堀江長門守を支持する。
盛重は伊達氏を出奔し、国分氏が滅亡したとのこと。
これだけ読むと、国分盛重はなんだか悲運の人という感じがしますね…。
伊達家に生まれたのに、国分家を背負わされ、最後は逃げざるを得なくなったという過酷な運命を思います。
この国分盛重ですが、『独眼竜政宗』ではイッセー尾形さんが演じています。
僕も好きな俳優さんで、クセのあるキャラクターを演じていたように思います。
盛重が国分氏に入れられたのは、盛氏に嫡男がいなかったためです。
ただ、史料によって盛重の一つ前の代が、盛氏と盛顯とで異なっているそう。
そのため盛顯は実在ではない可能性もあるようですね。
岩切城跡についてはこちら。
上で触れた岩切城合戦についても書いてます。
また、国分氏は長命館とも関わりがあったようです。
長命館の城主は長命氏。
長命氏についてはよくわかっていないようですが、国分氏の所領内にあり、国分氏から半ば独立していたと考えられているそう。
国分盛重の反対派の中に、この長命氏がいたかどうかはわかりません。