もとじろうです!
今回は岩切(いわきり)城跡についてです。
近くにある松森城跡についてはこちら、
車であれば同日に訪れることができます。
岩切城と関係の深い城です。
岩切城跡
泉塩釜線から青麻道という青麻神社(あおそじんじゃ)へ繋がる道を、車で北上して行きます。
青麻神社へ至る前に、城跡の入口があります。
駐車スペースは2、3台ほど。
ちなみに山の中は、日中でも熊の目撃情報があるそうです。
後で説明しますが、実際に痕跡も見つけました。
まわりは割と鬱蒼としています。夜は来たくないですね。
道は舗装してあるので普通の靴で大丈夫でした。この日は濡れましたが。
人気が無く、熊が怖いのでスマホからFatboy Slimを流します。。。
しばらく北へ進むと、突き当たったあたりで土塁が見えてきます。
上にあがってみると、
こんな感じ。この日は天気が良くなくて、周りの景色はあまり見えませんでした。
と言っても、ひたすら山です。
奥の方にちょっと平地が見えるくらい。
道へ戻って、今度は東の方へ進んで行きます。この間もずっと爆音でビートが流れてます。
広いスペースに突き当たります。土塁が残っているのがわかります。
段々になっているのがわかると思います。
一番高い平地。霧が幻想的な雰囲気を醸し出していました。
高森山の頂上。海抜106Mの低山です。
付近にあった2つの窪み。何なのかはよくわからない。
敷地の先から奥の景色が見えます。霧が濃いですが、平地が見えています。
木が大きくて雰囲気あります。
ただ、下を見ると動物の糞が結構ありました笑
なるべく複数人で来た方が良さそうです。でなければクラブDJの力を借りましょう。
こちらは入口にあったもの。城の歴史が説明されています。
城跡のあるこの山は、高森山と呼び、
岩切城は別名で鴻の館(こうのだて)とも呼んだそう。
平泉藤原氏の滅亡後、源頼朝は重臣伊沢将監家景(いさわしょうげんいえかげ)を陸奥国の留守職に任じた。伊沢氏は留守姓を名乗り、岩切城を居城とする。
100年に渡って東北を治めますが、源頼朝によって滅ぼされ、頼朝公は全国を手中に収めます。
その後、重臣の伊沢家景に東北を治めさせるため、この岩切城に置いたとのこと。
そのときの留守職(るすしき)という役職名を、自らの姓にしたんですね。
鎌倉時代は東北で重要な拠点だったことが伺えます。
留守氏は宮城の歴史で何度か目にしますが、この家景が始まりなんですね。
大河ドラマの『独眼竜政宗』にも、留守氏が登場しています。うろ覚えですが。
その後、南北朝時代に一度衰えるも、伊達氏と関係を結んで勢力を回復。
留守氏が居城を移してから、岩切城は廃城となったとのこと。
主に鎌倉から室町時代までの城だったようです。
県民の森中央記念館
青麻道をさらに北上し、県民の森中央記念館へ寄りました。
駐車場は広いです。セブンティーンアイスも買えます。
記念館の庭園。
広場があったり、小さい子が遊ぶには良さそうでした。
館内にも岩切城についての説明があります。
岩切城跡周辺の立体地図。
専門的な説明がありました。
今回見て来たのは、櫓台や本丸のある西郭で、その他に東郭があったようです。
なんと、気が付きませんでした。
全体で見ると近隣の城跡の中でも、敷地が広いのがわかります。
岩切城と留守氏の歴史が詳しく紹介されていました。
南北朝時代の動乱のなかで岩切城合戦があったそう。
奥州管領の吉良貞家と畠山国氏の武力衝突で、西郭が舞台に。
城に籠った畠山高国・国氏親子が切腹すると、侍100余人がそれに追随して落城したとのこと。
この戦いで畠山方についた留守氏も一時没落。
その後は、留守氏が岩切城への入城を果たすと国分氏と対立。
一時勢力が衰えるも、13代留守家持のときに伊達氏傘下となることで勢力は安定。
その家持には子がおらず、ここで血脈が途絶えるも、伊達氏から養子をもらい家系を継続。
18代政景は村岡氏との戦いを繰り広げ、
政景が村岡城(利府城)に移ると、岩切城は城としての役目を終えたようです。
ちなみにこの政景こそ、伊達政宗の家臣として『独眼竜政宗』に登場しています。
説明文の下が切れてしまいましたが、戦前は陸軍の演習場にもなったことが書かれていますね。
(文は岩切歴史探訪の会によるもの)
岩切城合戦の落城など、嘆かわしい歴史もありますが、
宮城、ひいては東北において重要な城であったことが伺えます。
ちなみに城跡の入り口手前には防空壕の跡があるそうです。
隣の松森城跡についてはこちら、