もとじろうです。
登米市の東和町(とうわちょう)には、伊達騒動で知られる原田甲斐(はらだかい)の墓があります。
不老仙館から東へ徒歩15分ほど、東陽寺の境内にあります。
原田甲斐の墓
こちらがその東陽寺。駐車場は広いです。
伊達騒動については長くなるので省略しますが、政宗公の後の時代、伊達家の家臣らの分裂、対立が起こります。
その対立内容について幕府の評定を受けるため、大老・酒井忠清邸に家臣らが集まりますが、そこで原田甲斐は対立していた伊達安芸らを斬ってしまいます。
そして原田自身もその場で討たれることに。
この事件は江戸での出来事ですが、原田の首が密かに運ばれここに埋葬されたのだとか。
寺の歴史が紹介されています。
伊達家が仙台入りすると、原田家は船岡(現柴田町)に置かれ、寺も船岡へ。
その後、寛文事件(伊達騒動)により、原田家が断絶すると船岡は柴田氏の領地に。
この地にあった柴田氏の菩提寺大光寺と入れ替わるようにして東陽寺が来たそう。
ややこしいですが、山形→船岡(柴田町)→米谷(現在地)という変遷ですね。
寛文事件までは近くの米谷城に柴田外記(しばたげき)がいました。
しかし、この柴田外記も酒井邸で討たれてしまいます。
原田甲斐の死体は芝山内の良源院に葬られたが、首だけは密かに船岡の東陽寺に運ばれ、後に東陽寺が米谷に移るとき原田甲斐寄進の梵鐘に首桶を隠して舟で密送、この地に埋葬し銀杏を目印にしたと伝えられる。
寺の裏側にその銀杏が残っています。
階段をあがって、
こちらが本堂。
裏を回っていきます。
大きな銀杏が立っています。
高さは50m余りだそう。確かにこの大きさの銀杏はなかなか見ません。
根元に墓が立っています。
この供養碑は延宝七年(一六七九)に甲斐の遺徳を偲び、旧家臣等が建立したもので、当時は世をはばかり伏せてあったといわれ、刻まれた人名も後難を避けるため偽名を用いたといわれる。
原田甲斐の墓であることを隠さねばならなかったのですね。
大老家で騒動を起こした責任として、原田家の男子は切腹、お家は断絶しています。
その後も、芝居などで原田甲斐は悪人として描かれることが多かったそう。
先の説明で胴体は江戸の良源院に葬られたとありますが、どうやらそちらも正式な墓をつくることは許されなかったようですね。
密かに立てられたかもしれませんが、良源院もすでに廃寺となり、今となってはそれを伝えるものは無さそうです。
壮大な銀杏の姿に厳かなものを感じます。
原田甲斐とは別ですが、米谷(まいや)の地名の由来がこの場にありました。
お坊さんの石像のあるところが小さな泉になっています。
米渓(べいけい)の泉と呼ぶそうで、なんでもこの地で修行していたお坊さんが、この泉から湧き出た米を食べていたのだとか。
それでもと「前谷」だった地名が「米谷」になったようです。
泉から米が湧き出てくるなんて不思議ですよね。
(上流で誰かが捨てた米の可能性も捨てきれませんが、野暮な考えはやめておきます)
泉は蓮池に続いています。
さて、原田甲斐に話を戻します。
甲斐の首は、船岡で自身が寄進した梵鐘に隠され、米谷へ運ばれます。
しかし、残念ながら梵鐘は戦中、供出されてしまったようです。
奥に現在の梵鐘、ならびに鐘楼があります。
原田甲斐は長く悪人にされてしまいましたが、周りの人間ほどそうは見ておらず、人望があったようにさえ感じます。
わかりやすいストーリーにするため、悪人に仕立て上げられてしまった部分はあるのかもしれません。
大老邸で刀傷沙汰を起こした以上は、ある程度のお咎めはやむなしですが…。
山本周五郎作『樅の木は残った』では忠臣としての原田像を描いているようですね。
登米には他にも騒動に関わりの深い登米伊達家の歴史が残るのでその辺りもいつか見ていきます。