もとじろうです。
【多賀城史跡めぐり】第三弾です。
前回で、多賀城跡を紹介していますが、
ここで紹介する多賀城碑、多賀城神社は、多賀城跡に隣接するので一緒に訪れることができます。
前回の記事はこちら、
ただ、位置的には多賀城碑→多賀城跡→多賀城神社の順になっています。
多賀城碑
多賀城跡の南、正面階段を下って道路を渡ったところに多賀城碑はあります。
実際には多賀城跡の前に訪れました。
中に石碑が立っています。
多賀城碑 / 壺碑(つぼの石ぶみ)
奈良時代に多賀城の修造を記念して制作された石碑です。2代藩主伊達忠宗の頃に土中から発見されると、西行や源頼朝が和歌に詠んだ歌枕ゆかりの地「壺碑」と関連付けられ、有名になりました。
土に埋まって忘れられていたものが、江戸時代に見つかって「西行や頼朝が歌った壺碑と関連付けた」ということのようです。
厳密に、これこそが「壺碑」というわけではなさそうですね。
松尾芭蕉も『おくのほそ道』で言及したそう。
ちなみに芭蕉が訪れたときは、多賀城跡は草に埋もれていたため、芭蕉はこの碑文からかつて存在した多賀城を感じ取ったわけですね。
碑文内容は大きく二つに分かれ、前半は、平安京などから多賀城までの距離が記されています。後半には、724年、多賀城を設置したこと、762年、修造したことが記され、最後の行に碑を建てた年月日が刻まれています。
碑文の内容が藤原朝獦による修造に力点を置いていることから、多賀城記念碑とみることができます。
(一部省略)
石碑は、江戸時代に作られたという説もあったそうですが、この修造の記載は他では文献に残っておらず、結果として奈良時代に立てられたことの裏付けになったそうです。
こういった貴重な記録もあって、日本三古碑に数えられるようですね。
僅かなヒントから歴史を読む解いていく様子が面白いです。
付近の石碑。「つぼのいしぶみ」の道標だそう。
この道標は、もとは西方面にかかる市川橋のたもとに立っていたみたいですね。
歌碑。
情報が少なくて苦労したのですが、「芭蕉翁礼讃碑」と呼ぶそう。
学が無いので、書かれている内容は僕にはさっぱりです。
裏面。
「御即位記念風致林」とあります。
風致林は、名所を守る林のことです。
裏面に、大正四年とありました。また、市ではなく多賀城村になっていました。
多賀城碑のある丘からの景色。
小屋が見えていますが、そのあたりに築地塀の跡があるようです。
普通に歩いていたのですが、気が付きませんでした。
丘の風致林。
多賀城神社
市には他に、二つの多賀神社もあるのでちょっと紛らわしいです。
高崎の多賀神社については前々回の記事に書いてます。
だいぶ暮れた時間だったのでこのようなことに…。(無理やり明度あげてます)
てっきり歴史ある神社かと思いきや、戦後の創建でした。市内でも最も新しいとのこと。
南北朝時代に、陸奥太守として多賀国府に赴任した義良親王(後村上天皇)と、親王に仕えた北畠親房・顕家父子を祀っています。
(この石碑は、以前は多賀城跡の敷地内にあったようです)
社殿は、世界大戦時の多賀城海軍工廠安殿を移築したもので、海軍工廠の数少ない遺構として貴重とのこと。
工廠(こうしょう)とは、軍事工場のことです。
ちょっと気になったので簡単に調べてみました。
第二次世界大戦時、昭和18年に設置された東北唯一の軍事工場で、市域の4分の1もの面積があったとのこと。
主に、零戦の機銃などを作っていたそう。
現在でもその遺構が各地に点在しているようです。
多賀城高校の南側の敷地は、今は陸上自衛隊の駐屯地になっていますが、当時の建物や土塁、トンネルなどをGoogleの3Dマップで覗くことができます。なんだか悪いことしてる気分になりますが。
また、東北学院大の敷地あたりには、当時の古い消火栓があり、これもストリートビューで確認できます。
多賀神社の社殿には、床下の部材に海軍の印が見えるそう。これはさずがに現地行かないと見れないと思います。
詳しくは、多賀城市の教育委員会がまとめた調査報告書が、ネットでダウンロードできます。
多賀城神社に話を戻しますが、二つある多賀神社のうち、六月坂の多賀神社と、貴船神社が近くにあるそうですね。この日はもう暮れていたので、行くのはやめました。
高崎の多賀神社は、前々回の記事に書いています。
大戦時、大きな軍事工場があったことは僕も知りませんでした。
多賀城は史跡が多いので、また訪れたら記事にしていきます!