もとじろうです。
今回は仙台市泉区朴沢の亀の子石と、その近くにあるバスの回転場を紹介します。
根白石は古い街道が残っていて史跡の多い町ですが、隣の朴沢(ほうざわ)にも多くの史跡が残っています。
朴沢回転場(朴沢バス停)
根白石より奥へ行った朴沢にある、バスの回転場です。
この地域の市バスの終点です。
山に挟まれた朴沢を、奥の方へ進んで行くと現れます。
木造の古い建物で趣がありますね。
真ん中にバスを回転させるスペースがあります。
壁に張られた広告、政党ポスター、ベンチといったものがこの風景を完成させてます。
ここから町頭までの区間は、市バスにただ乗りできるみたいですね。
町頭は知らなかったのですが、根白石と朴沢の境らへんにある地名でした。
おそらく町の入り口という意味でしょう。
泉中央行きが何本か。(※2020年7月の時刻表)
実際に乗ってみるのも面白そう。
車体は仙台でどこでも走ってる普通の市バスのようです。
バス停からの眺め。
冬は真っ白だろうな。
裏側の様子。木造の壁面に広告。
この建物は倉庫だと思いますが、何が入ってるんですかね。
近くにあった『泉史跡めぐり』定義道の説明があります。
定義山は宮城で有名な山で、地元で古くから信仰されています。
根白石村には、定義如来信仰の参詣者が往来した定義道と呼ばれた道路がいくつもあった。参詣者は、近郷近在ばかりではなく、遠く仙北(中新田)などや岩出地方(岩谷堂)からもやってきた。この方面の人達は、みな根白石村を経由して定義へと急いだ。
中でも、このコースは賑わい、お祭りの日には数百人が通ったほど賑わったと言われている。当時の人々にとっては、一年に一度の定義参りは楽しいものであった。
このすぐそばにある定義への道標の石は、元は向かいにあったものである。
なお、狩集の地名の由来は、源頼朝が平泉の藤原氏征伐の帰りに、この地で巻狩(まきがり)をし、獲物を集めたことからついたと伝えられている。
狩集(かりあつめ)は、ここの地名なんですね。
頼朝が藤原氏を征伐した帰り、この地で狩りをしたとのこと。
とするとこの辺りには、他にも頼朝ゆかりの史跡がありそう。(根白石の名付け親であるとはいざ知らず…)
バス通りから入った小路にこの看板があります。
狩集の先は、福岡鷲倉神社の麓の小山→上の原→酒屋前へと道が続いたようです。
福岡は九州のではなく、朴沢や根白石の隣町です。
酒屋前は店があるのかと思ったら、まさかの地名でした笑。
これを辿ると、長谷倉川を越えて西へ続いているのがわかります。
看板のあるこの小路は数十メートルしか続いていないのですが、以前はもっと西へ繋がっていたということですかね。
この小路を南西へ進んだ先の、久保という土地に久保の道標があります。
ストリートビューで確認すると、ガードレール脇に小さくありました。
推測ですが、この道標の先から鷲倉神社方面へ川を越えたんじゃないでしょうか。
遠くの土地からやってきた人達は、根白石を経由して定義山へ向かったそう。
そうは言っても、ここから定義山までもかなり距離はあります。
建物裏の道標。
昔の人はこういった石が地図代わりだったんですね。
亀の子石・朴沢石碑群
バス通りを北に少し進んだ三叉路に亀の子石があります。
亀の子石を含めた三叉路の石碑群。
こちらが亀の子石。
この石を石仏にしようと何度も石屋に運んだが、そのたびに翌朝にはこの場所に戻るので、造るのをやめたという伝説が残る。また、いつの頃からか石の下の土を持ち帰り、産婦の布団の下に入れておくとお産が軽く済むと伝えられている。
古くは多賀城から七北田川沿いに朴沢を通り、宮床に通じる古道があったことから、この三叉路はその古道の重要な位置であったと思われる。
亀にまつわる伝説かと思ったら、そういうことでもありませんでした。
夜な夜な移動してきたそうなので、そのへんで亀と結び付けられたのでしょう。
見た目は確かに亀ですね。
この三叉路は、多賀城から宮床へ続く古道の通過点とのこと。
確かに右へ行くと、湖のある宮床へ続いています。
また、左は光明の滝、泉ヶ岳に至ります。
そのため、この三叉路に安全を祈願する石碑が多く建てられたのですね。
実際、石碑の多くは馬の安全を願った馬頭観世音でした。
ここには御神木のような大きなモミの木がありますが、仙台市ホームページによると、
モミの木は、かつて仙台藩に物資を運んでいた荷役馬がこの地で倒れ死んだことを不憫に思った村人が供養塔を建て、その時に植えられたものと伝えられています。
とのこと。
何も知らないで行くと驚くかもしれませんね。
朴沢、根白石のあたりは史跡が多いので、また記事にしていきます。