こんにちは、もとじろうです。
仙台市泉区で有名な賀茂神社と、古内志摩にゆかりの史跡をいくつか回ったときの記事を書きます。
古内志摩義如について
初めに古内志摩という人物について簡単に紹介します。
古内志摩義如(ふるうちしまよしゆき)は、
江戸時代に起こった「伊達騒動(寛文事件)」の唯一の生き残り、ただ一人の証人でもありました。
その伊達騒動というのは、簡単に説明するのは難しいのですが、当時の藩主への不満や領地争いが重なる中で家臣同士での殺傷事件が起きます。そのとき古内志摩は別室にいたために難を逃れ、事件の後処理に活躍しました。その事件後の行動というのが大きく、分断された伊達家を収めたということですね。
今の仙台があるのは、古内志摩の行動があったから、かもしれません。
それで今もお墓や、ゆかりの史跡が大事に管理されています。
恥ずかしながら「伊達騒動」はよく聞くのですが、はっきりとは知っていませんでした。
山本周五郎の小説、『樅の木は残った』に描かれており、NHKの大河ドラマにもなっています。
賀茂神社
賀茂神社(かもじんじゃ)は仙台市でも有名な神社で、毎年どんと祭が行われます。
なぜここを紹介するかと言うと、もともとここに古内志摩の屋敷があったようです。
賀茂神社の向かいの方角には加茂団地がありますが、神社のある一帯はもともと古内氏の領地で、「古内」の地名が残っています。
赤い立派な鳥居があります。
ちょうど桜の時季でした。地元の人たちには、ここの桜は有名です。
もとは鹽竈神社(しおがまじんじゃ)にあった只州宮を、この土地に移して賀茂神社ができたとあります。鹽竈神社は、塩釜市にある有名な神社です。
社殿が2社あり、
上賀茂社で別雷命(わけいかづちのみこと)を祀っているとあります。
京都の本社から、それぞれ分霊されているということですね。
この土地はおみくじで決まったそう。神社が来るとあれば古内氏も従うしかないですね…。
大きなイロハモミジ2本が出迎えます。桜の季節なので今は寂しい。
立派な拝殿です。鳥居を挟むように、両脇には大きな木が。
アラカシです。2本とも樹齢200年以上で、仙台市指定文化財とのこと。宮城が北限地で、この大きさは珍しいようです。
拝殿を進むと、本殿が並んでいます。
神様の側から見てということですね。
タラヨウもあります。こちらも樹齢200年以上で、北限地帯において、これほどの大きさは珍しいとのこと。巨木が多いんですね。
出ようとしたところ、鳥居の近くに石碑がありました。
見づらいのですが、「松尾観世音」とあります。
駐車場の桜が見事でした。数十台は止める広さがあります。
慈眼寺
賀茂神社のすぐ近くには慈眼寺があります。
道路を渡ったほぼ向かいです。広くはありませんが、駐車スペースもあります。
慈眼寺前にある案内板。
伊達騒動の説明と、古内志摩が没後ここで葬られたことが書かれています。
以下はお寺のホームページの引用です。
仙台市(泉区古内字糺(ただす)にある盛徳山「慈眼寺」は臨済宗の寺で、仙台北山の資福寺の末寺です。
古内志摩の父である義実が建立しました。義実は承応8年(西暦1652年)に江刺市岩谷堂で亡くなり、同地の徳林山崇賢寺に葬られています。義実の奥方(古内志摩の母)の父親は支倉常長をメキシコまで迎えに行った横沢将監です。
この慈眼寺から100メートルほど南の小高い山の急斜面の上には、古内志摩の墓があります。
(慈眼寺ホームページ)
古内志摩は、支倉常長を迎えに行った横沢将監の孫なんですね。
上記の通り、このお寺には古内志摩の墓があります。
写真の右手がお寺、左の方へ小高い丘へ続く道があります。
ですが、この道かなり急斜面のため、雨の日は危険だと感じました。
この日は晴れてましたが、それでもずるずる滑りました。
ここをずっと進んで来ます。
坂の麓には、古内氏の墓がいろいろと並んでいました。
古内志摩の墓
古内志摩義如の墓です。
地元の方々がボランティアで清掃されているようで、敷地内は綺麗です。
ちなみにこの墓石の裏には、まだ数メートル丘が続いているのですが、何かあるのかな…? 登りたい気もしましたが、やめました。
学が無いのでそれぞれの墓石が、どういったものなのかよくわかりませんが、写真のように多くあります。
これは、何かの跡でしょうか。
木を囲っている? 何かを建てていた?
墓の周りは加茂団地が広がっています。雨の日はこちら側から来るのも手です。
車だと中までは入れませんね。
団地ルートにある貯水タンク
遠くに見えているのは、七つ森の笹館山
長命沼(長命池とも)。奥に見える桜が賀茂神社のものです。
さて、賀茂神社、慈眼寺前の通りに戻ってきたら、少し東へ進みます。
古内志摩義如の遺言碑
見落としやすいのですが、長命館公園の敷地の脇に石碑が並んでいます。
長命館公園に数台の駐車スペースあります。
古内志摩義如夫人が建てたもので、南東の羽黒山中の中腹にあったものを、加茂団地造成のために移動させたようです。
もともとこの場所に石碑が7基あって、遺言碑を同じ場所に置いたということでしょうか?
この石碑だけ北を向いているのは、その先に古内家ゆかりの長命阿弥陀堂があるからだそうです。ちなみにこの阿弥陀堂、探してみたのですが、見つかりませんでした。ただ、やはりあるそうなので後日また探してみます。
羽黒山というのは、団地に開拓されて今は無き山なのでしょうか。北西の小さい区画に羽黒山という地名が残っているようですが、山ではありません。南東には長命館公園があって小高い山もありますが、おそらくそれとは別物だったのでしょう。
それにしても夫人が建てた石碑なのに、羽黒山中に建てていた理由が、その場所で夫人が行き倒れになったからというのはどういうことでしょうか。
初めはまた更に別の場所にあって、羽黒山中に移動し、現在はここに移ったということでしょうか。
僕の読解力が無いのかもしれません…笑。
もう少しこの地域の歴史を勉強する必要がありますね。
後日、辿り着けなかった阿弥陀堂に行ってきました。
付近の長命館跡についてはこちら、